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会津の成り立ちと移入文化

◇11月初めの連休に会津若松に行った。
流行病のせいでしばらくのあいだ遠出ができず、ちょうど1年ぶりだ。
今回は、「黒潮文明論」の著者でもある稲村公望氏との一泊旅行だったが、天王寺の柴田住職と作家の笠井尚氏にもお世話になった。

最初に訪れた磐梯町の恵日寺は紅葉の真っ盛りで、この日からライトアップが始まるという。
会津古代仏教の中心地が見事に赤く染まる時期は限られるから、ぜひ大勢の人に見てもらいものだと、私も主催者のような気持ちになった。

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9世紀の初めに徳一が磐梯山の山麓に建てた恵日寺は、後を継いだ今(こん)与(よ)が大きくして、寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたとされる。

室町時代の『絹本著(けんぽんちゃく)色(しょく)恵(え)日寺(にちじ)絵図(えず)』には、東国屈指の大伽藍(だいがらん)と門前町が描かれているが、私はいつも金堂のあたりから周囲を眺め、その絵図を重ね合わせて往時の仏教王国を思い描く。

徳一廟では、柴田住職にお経をあげていただいた。長い年月を経て恵日寺の復元が進められているが、この高僧の御霊はどのように見守っているのだろうか。
徳一の研究は盛んになっているが、あまりに史料が少ないために、なぜこの地で布教したのか、どのような経路で会津に入ったのかについても定説はない。

徳一の伝承を持つ寺院は、北関東の茨城県内にも40カ寺をこえるという。以前、徳一開祖と伝わる筑波山寺(知足院中禅寺)を参拝し、住職の話を伺ったことがある。徳一は初めに筑波で布教を行いその後会津に渡った。
会津で入滅したことは間違いないという。
その後遺骨の一部を貰い受け中禅寺近くに祀ったが、もうその場所はわからなくなってしまったと残念そうに話されていたことを思い出す。

◇湊町赤井の荒(あら)脛(はばき)神社で石碑などを調べていると、大イチョウはどこかわかりますか?とワゴン車から声をかけられた。
赤井の大イチョウは、推定樹齢600年にもなる会津若松市の指定天然記念物で、この近くにあるが少々わかりづらいのだ。
私もこの後に見に行くことにしていたから、道順を教えることができた。
女性のドライバーの隣には老女が乗っていたが、ふたりは深々と頭を下げるとわき道をゆっくり移動していった。

その大イチョウはまだほんの少し色づいた状態だったが、垂れ下がる枝の先にふたりの姿があった。
95才になった母親が動けるうちにと、親子で地元の名所を回っているのだという。
親孝行ですねと話しかけると、娘さんは照れながらうなずいた。
ふたりは我々と同じ行程で恵日寺の紅葉も見てきたらしい。
母親はこれも何かの縁ですねと顔をほころばせたが、思えば私の亡母と同世代の人だ。こちらも少しばかり親孝行をしたような気分になった。

赤井の大イチョウ



さて、アラハバキに話を戻す。この神は一言でいえば謎の神だ。
神名も荒脛の他に、荒吐・荒鎺などさまざまに表記される。

今では脚の健康や道中安全の神様などになっているが、私は地元の歴史家だった萩生田和郎氏の説をとって「製鉄の神」だと考えている。
しかしそれは砂鉄を使う以前の技術だ。湖沼や湿地に生える「葦(あし・よし)」などの植物の根が鉄イオンを吸収して褐(かつ)鉄鉱(てつこう)となり、それを原料とした古代製鉄が猪苗代湖畔で行われていたと推測しているのである。

『鬼の日本史「下」』(沢史生著)によれば、荒吐(あらはばき)神とは、アラ(粗鉄鉱→砂鉄)を吐く(吹き上げる)神だった。
この神様は、津軽地方を例外として、この神だけで自らの神域を保持している例がまずない、たいていは氷川神社などの境内で、片隅にわびしく祀られている居候(いそうろう)的存在であるいう。
その「アラハバキ」の名を留める神社が、会津若松には2カ所現存する。今回訪ねた湊町赤井の「荒脛」と町北町の「荒鎺」だ。

武光誠著『「古代日本」誕生の謎』によれば、縄文的な神々の多くは、国司の指導で平安時代までに元の名を失い、日本神話に登場する神に変わっていった。アラハバキのような神を祭る神社があるところは、かつて朝廷の支配を受けいれない勢力がいたと考えてよい、という。

古墳時代初期(4世紀頃)の会津の大型古墳からは、銅鏡や刀剣などの遺物が発見された。我々はこれをヤマト勢力との関係でとらえ、このころすでに会津はヤマトの勢力下に置かれたと考えてしまう。
しかし、ヤマト王権が全国を統一して律令国家となるのは7~8世紀 のことだから、それまでの東北にはあちこちに「地域国家」があったとみるのが自然だろう。
会津のアラハバキ神は、太古から高い文明とともにこの地を収めた集団で、ヤマト王権に最後まで抵抗した勢力の痕跡ではないだろうか。

アラハバキ神社



◇GoToトラベルのおかげだろうか、東山温泉の宿は早々に満室になったという。私も普段は安いビジネスホテルを利用するが、今回ばかりは少々ぜいたくができた。

部屋の座卓には、愛らしい「起き上がり小法師(こぼし)」が置いてあった。これが会津でつくられたのは400年前、蒲生(がもう)氏(うじ)郷(さと)が藩士たちの冬の内職として作らせ、正月に売り出したのが始まりとされる。

蒲生氏は近江(滋賀県)蒲生郡の出身である。
会津若松となった「若松」の地名は蒲生氏郷がその郷里の「若松」からとった。
会津漆器も氏郷が蒲生郡からよびよせた職人がつくり始めたもので、鶴ケ城の城壁を築いたのも近江の石工「穴(あ)太(のう)衆(しゅう)」だった。

さかのぼること天智天皇の660年、朝鮮半島の百済(くだら)が滅び、大勢の人々が日本へ渡来してきた。
『日本書紀』ではこのころ近江に渡来した百済人について、「百済の百姓四百人が近江国の神前郡に移住。」「余自信・鬼室集斯(百済の王族)男女七百余人を、近江国の蒲生郡に移住させた。」などと記している。

司馬遼太郎氏と親交のあった金達寿氏によれば、当時日本の総人口は5百万たらずだったから、百済人の移住はたいへんな数だ。
「蒲生郡」などは、その7百人のためにできた郡ではなかったか思うほどだ、という。(『日本の中の朝鮮文化(12)』)

会津史学会会長だった宮崎十三八(とみはち)氏の『会津地名・人名散歩』百済の章では、韓国旅行のエピソードがある。
百済の首都があった「扶余(ふよ)」を訪れると、現地の小学生は若松の小学生と同じような顔立ちで、それは釜山や慶州、ソウルとも全く違っていたという。
また、定林寺(じょうりんじ)跡にある百済時代の百済塔(高さ8.5mの五層石塔)は、蒲生氏郷の故郷にある石塔寺(いしどうじ)の石塔にそっくりであり、それは恵日寺の徳一廟(石塔)にも似ていると興味深い指摘をされた。

さらに、
「天智天皇の時代に、百済から蒲生郡に移住した人々はのちに鴨族と呼ばれた。琵琶湖東岸の近江蒲生辺に住んだのが鴨族か、鴨族が住んでいたからカモウと呼び、それがガモウとなったのか、いずれにしても出雲系の百済人の子孫ではないかと言われている。そうすると、はるかに下るが蒲生氏郷とその一族郎党はこれら鴨族の子孫であろうし、近江商人と言われる人たちもこの血統であろう。従って蒲生と共に近江から会津へやってきた武士や旧甲賀町に住んだ町人もまた、百済人と言えるだろう。」
と、会津人の祖先の源流を考察されたのだった。

◇会津名産品の「起き上がり小法師」だが、この原型は中国・唐の時代の「酒(しゅ)胡子(こし)」という木製の人形だとされる。
回転させて倒れた方角にいた人が盃を受けるという酒宴の遊び道具で、それが明の時代に紙張り子でつくられると、転がしても起き上がることから、不老長生の意味で「不倒(ふとう)翁(おう)」と呼ばれるようになった。
これが室町時代に日本に渡来すると子供の形(小法師)につくり変えられたというのである。

縁起物の「だるま」もこの不倒翁を源流とするらしいが、だるまはその後東日本を中心に広がったのに対して、起き上がり小法師は関西を中心に造られたというからおもしろい。
おそらく氏郷は、当時会津人の誰も知らない関西の名物に目をつけたのだろう。その思惑どおりに、起き上がり小法師は会津の名産品となり、400年後の今では人々に勇気を与えるマスコットとして世界に知れ渡った。数々の商業政策により会津藩の発展の礎を築いた名君には、まさに近江商人の魂が息づいていたのだ。

会津はこのように、他地域の要素を受入れながら発展した歴史がある。それも事実だが、私は一方で、古い神社の存在が示すように、太古から独自の文明を築いた勢力が大きなクニを形成した地域でもあったと考えている。



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