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伊佐須美神社の双身歓喜天

父の実家は大沼郡高田町(現・会津美里町)にあった。

お盆に帰省すると、決まって近くの伊佐須美神社へお参りしたことを思い出す。それはもう半世紀も前のことだが、真夏でもひんやりとした空気に包まれた境内は、子供心にも歴史の重みを感じる空間だった。残念なことに当社は、2008年の火災で社殿のほとんどを失ったが、私はあの頃の記憶に導かれるように会津を旅して、「不思議のクニ会津」の魅力を探っている。

父にはだいぶ年上の姉がいて、松平勇(いさ)雄(お)氏とは、幼いころ一緒に遊ぶ仲だと話していた。参議院議員の後、福島県知事を1988年まで12年間勤めた松平勇雄氏は、その温厚な人柄から「松平スマイル」、美術館や博物館等の建設実績から「文化の知事」とも言われた。明治40年(1907)高田町に生まれるが、父親の松平健(たけ)雄(お)氏は伊佐須美神社5代目宮司であり、会津藩9代藩主松平容保の次男という人物だった。

会津藩と伊佐須美神社の関係は深い。会津松平藩の祖・保科正之は神道を重んじ、崇敬する神社「会津六社」のひとつに当社を選定すると、歴代藩主が多くの社宝や社領を与えるなどして厚く庇護したのである。ちなみに会津六社とは当社の他に、諏方神社(若松市)、磐椅(いわはし)神社(猪苗代町)、蚕(こ)養(がい)国(くに)神社(若松市)、心(こころ)清水(しみず)八幡(はちまん)神社(坂下町)、西村八幡宮(新潟県阿賀町)である。

一方、会津藩が寛文期に行った政策(神社整理)により、主要な神社の性格が大きく変わったことも事実だ。寛文8年(1668)には若松城内の鎮守(稲荷)の神体を取り除き、修験の別当(べっとう)を廃し、また若松の鎮守諏訪神社、高田の伊佐須美神社、塔寺八幡宮の社僧・仏像を廃し、唯一神道に改めさせている。(『会津高田町史第6巻』)

神社整理が行われるまでの伊佐須美神社は、まさに神仏が習合された状態だった。不動や弁天、大黒、文殊、釈迦、聖天の信仰などが混在し、寺院・僧侶が神社の別当として宗教行事や管理に当たっていたが、やがてこれらの仏教色が取り払われ、神道一色の姿に変化したのである。

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伊佐須美神社のすぐ北にある日本三大文殊「清(せい)龍寺(りゅうじ)」は、もとは伊佐須美神社奥の院だった。舟木景光(ふなきかげみつ)夫婦が子を授かりたいと祈願して、天海(てんかい)大僧正が生まれたと伝わる寺でもある。

天海とは、徳川三代にわたり政治的にも宗教的にも大きな支えとなった僧侶で、江戸の都市計画はもとより、日光東照宮に家康を祀ったのも天海のはたらきである。

天海は100歳を超える長寿だったが、幼少期のことを語らなかった。そのため出自には諸説あるのだが、近年では会津説が有力になってきた。江戸城の鬼門の方角を守護するために天海が創設した上野の寛永寺(かんえいじ)でも、公式に会津生まれとしている。

さて、清龍寺から北へ1kmの「龍(りゅう)興寺(こうじ)」は、天海が得度したとされる寺で、境内には天海の両親の墓もある。

天海が生まれたのは、室町時代の天文5年(1536年)。会津は戦国大名葦名氏の時代だ。父の舟木(ふなき)兵部少輔景光(ひょうぶしょうゆうかげみつ)は、高田城主である葦名盛(もり)常(つね)の女婿として筆頭家老を勤めていたが宿敵も多かった。

堀和久著『天海』は、天海(幼名は兵(ひょう)太郎(たろう))が8歳の時、舟木館(ふなきやかた)が闇討ちに遭い、主である父の景光と天海自らも大けがを負う場面で始まる。一族を失った父・景光は、戦乱の世を憂い仏門へ入ることを願いながら命を落とすが、天海が11歳にして龍興寺での修行を許されるのは、まさにその遺志を継いだものとする筋書きだ。

天海は龍興寺で随風として出家すると、14歳から関東各所を遊学し、比叡山では天台宗の教義を修める。その後は故郷の稲荷堂別当に就くとも伝わるが、伊佐須美神社境内に残る「天海大僧正手植桧(ひのき)、永禄元年(1558)」はその頃のものだろうか。1607年に比叡山東塔南光坊住持となり、1612年頃に徳川家康と交わりをもつと、その後三代にわたり徳川家を支えたのは先述のとおりだ。(天海の経歴には諸説ある。)

天海大僧正手植桧(伊佐須美神社)

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伊佐須美神社の話に戻る。

『会津寺院縁起』(1665年)には「伊佐須美大明神の本地(ほんじ)は、文殊堂別当職がこれを勤め、兼ねて釈迦堂、仁王門、鐘楼、白山権現の社を守っている」とあり、文殊堂と記される清龍寺は、神社整理まで伊佐須美神社の別当職だったことがわかる。

ところで、「本地」とは神となって表れるその元の仏のことだが、伊佐須美神社の本地仏とはどんな仏様だったのか。

『会津風土記』伊佐須美大明神の条によれば、「イザナギ・イザナミの二尊を木で掘ったものであり、人の身(からだ)、鳥の首(こうべ)(頭)、長い嘴(くちばし)、大きい耳で、両(ふたつ)の首が相交わり、手を持って相抱く」という姿で、大きさは四寸八分(約15センチ)だという(『会津高田町史第6巻』)。驚くことにこの姿は、いわゆる「大聖(だいしょう)歓喜天(かんぎてん)(歓喜天、聖天(しょうでん))」という仏教の守護神である。

歓喜天像は、頭が「象」で身体が人間(象頭人身)の姿で、単身の像もあるが、双身歓喜天として二尊が抱きあう姿の像が多い。伊佐須美神社の歓喜天は頭が鳥だと記されるが、大きい耳があるのだから本来は象の頭だと思われる。象の鼻が鳥の長い嘴のように見えたのかもしれないが、いずれにせよ珍しい仏様である。

歓喜天信仰は密教において重視されたが、歓喜天を祀る寺社のほとんどが秘仏扱いにしているため、その像を目にする機会もめったにない。伊佐須美神社の歓喜天の行方もわからないようだが、その存在は、当社の神仏習合の時代をひそかに伝えているのだろう。

歓喜天(ウィキペディア)

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歓喜天とはインド神話の神で、ヒンドゥー教のシバ神の子、ガネーシャに起源をもつ。ガネーシャは、でっぷりした腹に4本の腕を持つ象頭人身の姿で、人々に害を及ぼす粗暴で邪悪な神だった。そこで十一面観世音菩薩は、自らが象頭人身の女天に化身してガネーシャを誘い、仏教に帰依することを誓わせた上で、和合・合体してこの神の暴悪を鎮めた。以後、ガネーシャは善神となり仏法の守護神となったとされる。

歓喜天は、弁財天、吉祥天など他の天部の神々と共に日本へ渡来した。「天部」とはインドの古来の神が仏教に取り入れられて護法神となったものである。

さて、真言宗の開祖である空海は、804年に遣唐使船で唐に渡ると名高い密教僧の恵果(けいか)に学んだ。恵果は大勢の弟子の中からただ一人空海を後継者とし、教義のすべてを伝授したとされる。2年後に帰国した空海は、多数の経典を持ち帰るが、その中の『大聖天歓喜双身毘那夜迦法』と『使呪法経』は、歓喜天に関する経典としてはもっとも古く、根本経典だという。(『歓喜天とガネーシャ神』長谷川明氏)

経典と同時に持ち込まれた歓喜天の像は、当時の僧侶にすればまさに驚愕の姿だったに違いないが、当初受け入れたのは平安貴族たちで、信仰が庶民のあいだに広がるのは江戸時代になってからのようだ。

空海が、821年に嵯峨天皇の病気平癒のために歓喜天を彫ったとされるのは、京都の大聖歓喜寺である。真言密教の根本道場である東寺(とうじ)とともに、都の守り神として栄えた大伽藍だったが、応仁の戦乱(1467~77年)で焼失した。今はその支院とされる雨(う)宝院(ほういん)が秘仏として歓喜天を祀り、地元では「聖天(しょうてん)さん」と親しみを込めて呼ばれている。

「聖天さんは大日如来が我々の願いをかなえようと姿を変えられたご仏身で、現世利益といって人間世界の欲望を直ちに叶えて下さる有難い尊像であります。」と紹介するように、歓喜天はおおむね江戸時代以降は、夫婦和合・縁結び・子恵みの仏であり、さらに、商売繁盛、除災招福、その他多くの現世利益をもたらす福の神のような存在になった。

 一方、日光修験道山王院では、「聖天さまは現世の御利益の篤い仏教の守護神ですが、そのお働きはなかなか激しい部分もございます。聖天さまの荒いお働きを鎮めるのが十一面観音さまです。昔から聖天さまに祈願をする場合、かならず十一面観音さまを合わせて祈ることがよいと言い伝えられています。」という。

大祭で授与される「歓喜天・十一面観音護摩札」は、聖天の御祈祷札と十一面観音の祈願護摩札が合わさった2体で1組の合札となる。これは、先述のとおり、粗暴で邪悪な神ガネーシャが十一面観世音菩薩によって仏教に導かれたとする由来に関わるのだろう。

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一昨年参拝した高麗(こま)神社(埼玉県日高市)を思い出した。主祭神は、高句麗からの渡来人・高麗(こまの)若光(じゃっこう)(?〜748)である。

第44代元正天皇の716年。朝廷は東海道7ヶ国に居住していた高麗(こま)人1799人を移住させ、武蔵国高麗郡(現・埼玉県日高市や飯能市)をつくるが、彼らを統率し高麗郡全体を治めたのが若光なのだ。

高麗神社からすぐ南の「高麗山聖天院(しょうでんいん)」は高麗氏の菩提寺で、寺の案内板には「本尊には、王(若光のこと)が守護仏として、故国より将来した聖天尊(歓喜天)を祀った。」とある。

高麗山聖天院

若光の故国・高句麗は、内乱に乗じた唐と新羅の連合軍によって攻め込まれ、668年に滅亡した。7〜8世紀の半島では百済も滅亡し、統一した新羅でも国情は安定せず、多くの亡命貴族や技術者たちが日本に渡った。

大和朝廷は、彼らを都に住まわせ新しい技術や学問を吸収する一方、朝廷にとって未開の地である東国の開発要員としたのだ。

高麗郡の大開発は、政治的リーダーのもとに組織された技術者集団(土木・精錬・築城など)と、故国でも下層民だった人々による一大プロジェクトである。

彼らは、歓喜天を拝みながら第二のクニ造りを行ったともいえるが、その後ろ盾はもちろん大和朝廷である。朝廷が未開の地・東国の支配を強化するこの時代には、会津盆地でも新しい勢力による地域支配が着々と進められているのだ。(続く)

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