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喜多方の熊野比丘尼

江戸時代のはじめ1611年、会津地方を襲った直下型地震(慶長会津地震)は、倒壊家屋が2万戸余り、死者は3,700人以上という大地震だった。会津盆地西側の多くの寺社が倒壊したが、なかでも新宮熊野神社(喜多方市慶徳町)の被害は甚大だった。

現在の当社は、拝殿「長床」正面の石段をのぼると、新宮・本宮・那智の三社が祀られ、その背面に小高い森が広がっているが、震災前まではそこに、紀伊国(和歌山県)熊野三山に倣(なら)った大伽藍が存在したのである。

震災の約90年後、渡辺直昌という会津の医者が、草に埋もれた神社の姿を憂いて『新宮雑(ざつ)葉記(ようき)』を書き残した。倒壊した建造物については、拝殿をはじめとして二十数か所の名称が記され、その他三十余院すべてが倒壊、残された楼閣は新宮・本宮・那智のみだと伝える。(現在の本殿は移築されたものである。)

中世の最盛期には僧侶が三百六十余人、禰宜・神主は百余人、東国における熊野信仰の一大拠点とされた当社は、磐梯町の慧日寺とも勢力争いをしたようだがその実態はわからない。近年復興が進む慧日寺とは対照的に、新宮熊野神社の歴史には謎が多い。


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熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社の総称である。紀伊半島の南部は独自の聖域とされ、古来「熊野」と総称されてきた。それは、樹々が鬱蒼と生い茂る森に、自然崇拝を源とする信仰が根付き、死後の世界(黄泉(よみ)の国)に通じると信じられたからだ。熊野の「クマ」は「神」や「隅」を表し、「神々のおわす奥まった地」として、人々がたやすく近づけない秘境の地とされた。

神武東征の時のこと。神武天皇は難波から大和を目指すが、長髄彦(ながすねひこ)の反抗により一度引き返すと、今度は紀伊半島の沖を迂回し東岸から陸路で北上する。事件はここで起こった。一行が正体不明の毒気にやられて倒れてしまうのだ。

その場面を『古事記』では、一行が熊野村に着いた時「大熊(おおくま)」が現れると、神武と兵士がみな具合を悪くして寝込んでしまった。『日本書紀』では、神武が「丹(に)敷戸(しきと)畔(べ)」という神を討つと、その悪い神が毒気を吐いて将兵が全員悩まされたとある。この時、高倉下(たかくらじ)という人物が献上した大刀(たち)の霊力で一行の命は救われるのだが、なんとも不思議な話だ。

丹敷戸畔(ニシキトベ)の「丹(に)」とは辰砂(しんしゃ)という鉱物のことだろう。トベとは女性の族長を示すから、この神は、辰砂が「敷」かれた(豊富な)地域の女族長だと思われる。丹は貴重な朱の原料であり、加熱・生成すれば不老不死の妙薬「水銀」ができる。朱は権力の象徴とされ「魏志倭人伝」には、倭(日本列島)の山で採れた丹を、卑弥呼が中国王朝に献上した(239年)と記されている。卑弥呼は、呪術を司る巫女(みこ)(シャーマン)のような人物で、「男弟」が彼女を補佐して統治したというが、丹敷戸畔にも同じ性格を感じる。

ところで、神武に討たれた丹敷戸畔は悪い毒気を吐いた。『古事記』では、大熊が現れた後に一行が具合を悪くしたが、この毒気の正体は、熊野の金や銅の鉱毒だと考えられる。おそらく「大熊」も鉱物を支配した豪族だろう。つまり、毒気にやられた神武一行がその後復活するという話は、神武が熊野の鉱物資源を獲得したと伝えているのだ。

(奥の森には、熊野三山に倣った大伽藍があった)

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昨年11月、私は大イチョウの見事な喜多方の新宮熊野神社を参拝した後、濁川(にごりがわ)を越えて「古屋敷(ふるやしき)遺跡」を訪ねた。この遺跡は、古墳時代中頃(5世紀半ばから6世紀初頭)の豪族の住居跡で、大規模な方形区画施設や倉庫群、祭祀関連施設などをもつ国内最大級の国指定史跡である。

(古屋敷遺跡。奥に見える山には新宮熊野神社、灰塚山遺跡がある。)

この広い敷地には私のほかに誰もいない。少し離れて建つ八幡神社にも大きなイチョウの木があり、新宮熊野神社にも負けないほどの美しさだった。私はこの贅沢な空間をしばらく満喫していたが、あたりを見渡してふと思ったことがある。

(古屋敷遺跡にある八幡神社)

この場所から新宮熊野神社は、北西方向へ約1キロだが、そのすぐ先は「灰塚山古墳」(5世紀中)がある。この古墳の石棺からは、近年、50歳代男性のほぼ全身の人骨が発見され、木棺からは、遺骨こそ残っていないが、大量の竪(たて)櫛(ぐし)が重なって出土された。竪櫛は呪術にも使われたから木棺の主はシャーマンではなかったか。まさに卑弥呼と男弟の関係を思わせる。

ところで、この二人の住居が古屋敷遺跡だとする説もある。仮にそうであれば、古屋敷遺跡、新宮熊野神社、灰塚山遺跡はほぼ一線に配置されていることになるが、なにより灰塚山古墳と新宮熊野神社が隣り合わせであることに注目したい。

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熊野信仰は、女性にも開かれた信仰だった。「熊野比丘尼(びくに)」は、もともと熊野の神に仕える巫女で、やがて各地に出向き牛(ご)王(おう)宝印(ほういん)の札を売り、勧進(かんじん)(寄付を募る)も行ったが、地方の熊野神社を拠点として宗教活動を行った比丘尼もいた。

新宮熊野神社の銅鐘(1349年)の銘には、宗徒三十人に続き「大旦那 比丘尼従満」が記され、その次が地頭(じとう)(この地の支配者)である。しかもほかの人よりも二字分ほど突き出ているから、比丘尼がこの鐘の鋳造の文字通りの大旦那すなわち主催者だとわかる。

さらに、各堂塔の本地仏ごとに造られていた「懸仏(かけぼとけ)(仏の姿を表した鏡)」は「御正体(みしょうたい)」とも呼ばれた重要な神器だが、そこに比丘尼の名が記されていることからも、新宮熊野神社はこれらの女性の活動により支えられ、この地の地頭とも肩を並べるほどの社会的地位を持っていたことがわかる。

「新宮雑記帳」によれば、新宮熊野神社と慶徳村の間にある山を「比丘尼平」といい、そこは若狭国小浜に住む八百(やお)比丘尼(びくに)の旧跡で、元弘・建武(1321-38)のころ、新宮(しんぐう)城(じょう)主左衛門尉平時明の母従満大姉がここに寺を再興して住んだという。

新宮城は、鎌倉末期に地頭として土着した新宮氏の拠点で、新宮熊野神社近くに今も残る城跡(国の史跡)からは、貴重な陶器や石製品、中国の焼物(青白磁(せいはくじ))も出土され、かなりの経済力がうかがわれる。新宮氏は代々新宮熊野神社を厚く信仰したが、宗教活動の柱としての比丘尼とそれを支える新宮氏は親密な関係にあったことは確かだ。

さらに興味深いことに、「新編会津風土記」には、慶徳村の南にある「比丘尼平山」(先述の比丘尼平か)には、むかし八百(やお)比丘尼(びくに)という長寿の尼が住み、金を埋めたという伝承が記されている。喜多方市塩川町の金川寺(きんせんじ)には、八百比丘尼の伝説と八百比丘尼堂まであるのだが、熊野比丘尼と八百歳まで生きたという八百比丘尼の接点については、また別の機会に考えてみたい。(八百比丘尼については以前本欄でとり上げたので詳細は割愛する。)

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古墳時代前期(4世紀頃)、会津盆地の3地域に古墳群が出現するが、これは大和にも引けを取らないほどの豪族が会津地方にも存在したことを意味する。全長100メートル級の古墳を築くには巨万の富が必要だが、私はその源泉は鉱物資源だと考えている。

神武天皇が熊野の鉱物資源を支配したように、会津地方の豊富な鉱物を求め、阿賀川などの大河を使い、あるいは深い山を越えて多くの人々が会津を目指したのだ。

争奪戦から勝ち残った一派がその地を支配するためには、人心を操る存在が必要である。古墳時代の大和ではそれが卑弥呼のようなシャーマンだが、灰塚山古墳にも同じよう存在を思わせる痕跡があった。

新宮熊野神社が建つのは、古墳時代前期を通じて古墳が継続的に築造された地域「宇内青津古墳群」である。この会津盆地西部の山々は、鉱物資源に恵まれている。喜多方市北部の加納鉱山は、明治から大正にかけて主に銀と銅、他に金・鉛・亜鉛・石膏・重晶石が採れた。慶徳村には八百比丘尼が金を埋めたという伝説もあるし、坂下町の高寺山に「立てば前 座ればうしろ山吹の 黄金千杯 朱千杯 三つ葉うつぎの下にある。」と伝わるのは、高寺が兵火で炎上したとき、密かに財宝(黄金と朱)を埋めたという話である。

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古墳は7世紀末には姿を消し、その後は寺院に変化したと言われる。しかし会津には、律令国家の成立により日本各地に置かれた国造も、国分寺と名の付く寺もなかった。これは、中央の政権から一定の距離を保ち、独自の自治が行われていたことを示すとされる。

その意味では、慧日寺に代表される徳一の仏教王国の存在が大きいが、会津盆地の西側にも少し性格の違う勢力が存在したのだろう。

日本海方面から阿賀川沿いに会津盆地を目指せば、宇内青津古墳群の一帯が初めの接点になる。ここは交易の拠点でもあり、太古よりさまざまな思想が入り込んだ地域でもある。

古墳時代のシャーマンには、渡来人による道教の影響がある。仏教伝来の頃に梁の国の僧「青(せい)巌(がん)」が庵を結んだという高寺山伝説は、いち早く仏教思想取り入れた地域であることを伝える。さらに、熊野比丘尼との関りが記される八百比丘尼の伝説には、道教の不老不死の要素があり、よく似た話は高句麗の時代に遡ることがわかっている。

新宮熊野神社の始まりは11世紀半ばの源氏の勧請とされるが、それは鎌倉時代以降の創作だろう。この一帯では、古墳時代以降女性を中心とした宗教活動が綿々と続き、中世までその影響力が衰えることはなかったのである。

熊野信仰には神様も仏様もいて、修験や密教の要素もある。自然崇拝を源流とした復活再生の場であり、なにより女性に開かれた信仰だった。喜多方のシャーマンも熊野比丘尼として復活し、民衆の心をとらえていたのだろう。

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