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【水でつながる会津の古代史】

民謡「会津磐梯山」には、「恋の滝川 舟石越えて 親は諸白(もろはく)(エーマタ)子は清水(しみず)」という歌詞がある。
「子は清水」とは「強(こわ)清水(しみず)」、湧水を使った蕎麦で有名な場所で、「親は諸白、子は清水」とは、働き者の父親と親不孝の放蕩息子にまつわる昔話である。

この地に日照りが100日間も続いた。
朝から晩まで懸命に働く木こりの父親が、帰り道で一服して滝の水を飲むと「諸白」つまり酒に変わっていた。
それを見た息子が、これ幸いとその水を飲むがただの水。
ある晩息子の夢に「弁財天」が現れて、諸白は父親への褒美であると告げる。そして、悪行を悔い改め親孝行に励めばお前にも良いことがあるだろうと諭した。
翌日、息子が父親に心から許しを請うと、その時なぜか息子の頭に、白い「蛇」のかんむりをかぶった神様が浮かんだ。
やがて息子は、岩清水のそばのお堂に弁財天を祀ると、その堂の番人となって人生を送ったという。

弁財天は七福神の一員として有名だが、もとはヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(川の神様)で、仏教が取り込んで天部(てんぶ)(護法神)とした。川の神様だから水や農耕にも関わり、龍や蛇が弁財天の化身にもなった。

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          (会津若松市・強清水湧水)
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磐梯町の磐梯西山麓湧水群(ゆうすいぐん)には、雪解けの水を集めた清水や大小の滝が点在する。
そのひとつ「龍ヶ沢(りゅうがさわ)湧水(ゆうすい)」の水は「慧日寺」資料館の庭園まで引き込まれているが、龍ヶ沢では、古代末から太平洋戦争直後までたびたび雨乞(あまごい)が行われていたという。
江戸時代には会津藩の命により、磐梯山頂、恵日寺、龍ヶ沢で雨乞が行われた。
その雨乞の行は、龍石の上に龍の落し子と五穀をあげ、僧侶が読経を行うもので、町内に残る龍像権(りゅうぞうごん)現(げん)像は、青緑色の亀に乗り頭上に五竜をつけているという。

平成30年の夏、慧日寺金堂に薬師如来坐像が完成すると、京都・清水寺(きよみずでら)の森清範貫主は次のような言葉を寄せた。
「徳一菩薩が建立された寺々の中でも、この慧日寺は分けても陸奥国の名刹(めいさつ)であります。大同元年(八〇六)に<奥州会津石(いわ)梯山(はしやま)に清水寺を建立す。会津大寺これなり>とあり、当初清水寺と号し、後に弟子今(こん)与(よ)という僧に和歌一首を添え授けたといいます。その歌に、“縁あらば我また今(こん)与(よ)石(いわ)梯(はし)の山の脚(ふもと)の清水の寺”と詠まれております。まさに慧日寺は私ども京都清水寺と清らかな水の縁で結ばれた寺であります。」(磐梯町『史跡恵日寺跡金堂内復元記念物完成記念』より一部抜粋)

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          (恵日寺金堂・薬師如来坐像)

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神社仏閣を参拝する際に手と口を清める「手水舎(ちょうずしゃ)」は、龍の姿をかたどったものが多く、境内には龍を刻んだ柱や龍の天井絵などもみられる。
古代より水稲農耕が盛んで、水との関りが密接な日本では水神が信仰されたが、なかでも龍の存在は大きい。

紀元前3500年頃の中国では、すでに龍形の玉飾がつくられ、殷・周時代には青銅器の装飾や甲骨文字にも龍が現れる。
やがて『易経』『史記』など多くの古典にも記述され、四神のひとつとして青龍が登場し、紀元前後の漢代には皇帝のシンボルにもなった。
日本でも、弥生時代後期に龍を描いた土器が主に西日本で作られたが、これは龍の概念が大陸から伝わった証しともいえる。
また、日本では縄文時代から蛇に対する信仰があった。脱皮が命の再生の象徴と見なされていたようで、男根への連想から種神(=穀物神)、田を荒らす野鼠を補食することから「田を守る神」とされた。
さらに蛇は湿地を好んで生息することから、水神の使いあるいは水神そのものとされ、やがて蛇と龍は習合する。
雨乞に龍や蛇が関わるのはこのような背景があり、密教の発展とともに、祭祀としての雨乞が盛んに行われるようになった。

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空海が錫(しゃく)杖(じょう)を地面に突くとたちまち清水が湧き出た、という空海ゆかりの清水は日本各地に存在する。
唐から帰国後に体系化された密教(純密(じゅんみつ))を確立した空海は、国を挙げた雨乞にも関与している。

天長元年(824)の春、 長い間雨が降らず日照りが続いたため、淳和(じゅんな)天皇は神泉(しんせん)苑(えん)(天皇の庭園)での雨乞を、西寺(さいじ)の「守(しゅ)敏(びん)」と東寺(とうじ)の「空海」に命じた。
まず西寺の守敏が7日間、次に空海が7日間の雨乞いをしたが全く雨が降らない。不思議に思った空海が法力で調べると、守敏の仕業により全国すべての龍神が水瓶に閉じ込められていた。
しかし唯一「善女(ぜんにょ)龍(りゅう)王(おう)」だけは守敏の呪力から逃れてヒマラヤの北にいることが分かった。
そこで空海は、さらに2日間の延長を願い出て、善女竜王を神泉苑に呼び寄せ、雨乞の修法(請(しょう)雨(う)経法(きょうほう))を行ったところ、長さ9尺(約3メートル)ばかりの金色の竜が姿を現し、たちまち雨が降り始め、その雨は三日三晩日本中に降り続いたとされる。

これを機に守敏は失脚し、西寺とともに歴史の舞台から姿を消したというが、西寺の守敏とは、奈良興福寺の別当を務め、後に室生寺創建に関わった修(しゅ)円(えん)だとする説がある。
この修円とは、徳一が興福寺時代に法相学を学んだ師匠に当たる人物だ。会津へ渡った徳一が『真言宗未決文』で、空海に対し真言宗の教理への疑問を述べたことは広く知れ渡るが、神泉苑の雨乞からも、「古密教(こみっきょう)」対「純密」の構図が浮かび上がる。

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空海以前の日本には、古密教あるいは雑(ぞう)密(みつ)と呼ばれる密教が伝わっていた。古密教では大日如来がまだ現れず曼荼羅(まんだら)も存在しない。
薬師如来、阿弥陀如来、十一面観音、弁財天などのホトケに対して、五穀豊穣、病気平癒、雨乞などの法会を行った。

国の監督下にある官寺(かんじ)の僧侶に対し、山岳で修業する密教僧には霊山の不思議な力が宿っていると考えられ、高貴な人物の病気平癒や流行病の退散、異常気象への対応などの場面で重要な存在だった。

修験道の祖と言われる役(えんの)行者(ぎょうじゃ)は、7世紀末頃に奈良・葛城山にいた呪術者である。
鬼神をつかった神通力を持ち、各地を瞬時に移動したとも伝わるが、雨乞にも用いられる孔雀(くじゃく)王(おう)呪法(じゅほう)を習得し、密教的な修行を行った人物である。
会津の磐梯修験は慧日寺よりも古い歴史を持つが、その開祖も役行者だとされる。

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京都の清水寺には音羽(おとわ)の瀧(たき)がある。
8世紀後半、奈良で山岳仏教の修行を積んだ法相宗の僧賢(けん)心(しん)(後に延鎮(えんちん))は、夢で「北へ清泉を求めて行け」とお告げを受けた。それに従い北へ歩くと京都の音羽山(おとわやま)で清らかな滝を見つけ、水垢離(みずごり)行(ぎょう)をする老仙人行叡(ぎょうえい)居士(こじ)(二百歳)に出会う。
行叡は、観音力を込めた霊木を賢心に授けると「お前が来るのを待ち続けていた。この霊木で千手観音像を彫刻し、この観音霊地を守れ」と言い残し、東の方へ旅立つと二度と戻ることはなかった。

それから2年ほど経ち、鹿狩りに音羽山を訪れた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、音羽の瀧で賢心と出会う。
賢心は田村麻呂に観音霊地での殺生(せっしょう)を戒め、観世音菩薩の功徳を説くと、その教えに深く感銘を受けた田村麻呂は、十一面千手観世音菩薩を御本尊として寺院を建立し、音羽の瀧の清らかさにちなんで「清水寺」と名付けた。

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            (京都・清水寺)

行叡は役行者がモデルかもしれないが、東方へ発った後のことは一切伝わっていない。高橋富雄氏は、「延鎮が清水寺を完成するちょうどそのとき、天告により東国に修行した徳一が、東国清水寺を開いている。(中略)延鎮の要請により、行叡東国修行の本意を果すべく、徳一は都を離れた。」(『徳一と最澄』)と述べている。

徳一の東国行きの理由をこの「天告」説で考えると、霊力を宿した徳一の姿が大きくイメージできる。そして役行者や行叡の姿も重なり、改めて慧日寺の魅力に気づくのである。

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              (徳一大師像)

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会津坂下町の高寺山(たかでらやま)遺跡は、徳一とのつながりが指摘されている。
9世紀前半の山寺跡の遺跡が確認され、古密教の祈祷で利用する「修法壇(しゅほうだん)」や湧水をためる堰も見つかった。
時枝務立正大学教授は、昨年11月の講演会(会津坂下町)で、この地で行われた水の儀式の可能性を指摘している。

高寺山には、仏教伝来の頃に大陸梁(りょう)の国の僧侶(青(せい)巌(がん))が仏教を伝えたという伝説があるが、いまだにその遺構は発見されていない。
しかし、国名と僧侶の名前が伝承されている意味は重い。青巌の故郷梁の国にも「請雨経」は伝わっていたのだから、青巌は、彼を招いた豪族の依頼により、高寺山の頂で雨乞の儀式を行っていたのかもしれない。
ついそんなことを考えてしまうのは私の癖だが、水でつながる古代の歴史をつらつらたどるのもなかなか面白いものだ。 

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           (会津坂下町・高寺山山頂)
                             (終わり)

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