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【鬼渡神社と山の民の足跡】

昨年末、会津好きの面々で忘年会をした。場所は都内にある、三島町産会津地鶏専門店。お任せで焼き鳥などを頼んだが、歯ごたえのある上品な味わいだった。
「会津地鶏」の起源は、平家の落人(おちうど)が愛玩用として持ち込んだニワトリだとする説もあるが、食用として供給されるのは現代になってのことだ。

そもそも日本のニワトリは、紀元前2世紀頃に中国大陸から伝来し、鳴き声で朝の到来を告げる「時告げ鳥」として利用されていたという。
天(あまの)岩戸(いわと)神話でも、天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)がお隠れになると、八百万(やおよろず)の神々が、長鳴(ながなき)鳥(どり)を集めて鳴かせたと伝わるように、ニワトリには神聖な存在としてのさまざまな伝承がある。

平安末期のこと、闘鶏(とうけい)神社(和歌山県田辺市)の別当は、源氏と平氏のどちらに付くかで悩んでいた。神社本殿の前で、赤白のニワトリを7羽ずつ闘わせると、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め、壇ノ浦に向かったという。

平家一族が逃げ延びたという落人(おちゅうど)伝説は檜(ひの)枝(え)岐(また)村にもあるが、同じ南会津の南会津町藤生(とうにゅう)には、ニワトリ権現と呼ばれる小さな神社が鎮座する。

『田島町史第四巻(民俗編)』には、「集落の艮(うしとら)の方角に飛鳥神社、俗称ニワトリ権現を祀っている。昔、小塩(こしゅう)に災難が相次いだため、鬼門除けにと栃木県塩谷郡にある鶏(けい)頂山(ちょうざん)の高原村から勧請した。ジフテリアにかかると鶏の鳴く時のように息をひきこむ。鶏を描いた絵馬を納めて、祈るとよいとされている。かつて小塩では災難があるといって鶏の飼育を禁じ、その卵さえ口もにしなかった。」とある。

古代史研究家の金達寿氏は、かつてこのニワトリ権現を訪れ、「その眺望から朝鮮の風水のことを思いだし、この神社の丘陵にはもしかすると、この地域の首長を葬った古墳があったのではないかと思った。」と書く。(『日本の中の朝鮮文化12』)
その金氏によれば、ニワトリや卵を食べないという風習も、古代朝鮮の新羅が、鶏を神聖視したことに関係するという。
新羅金氏の始祖伝説では、森でしきりに鳴く白い鶏のそばに、金色の箱があり、そこから男児が生まれ、喜んだ王様はその子を王子とした。金色の箱から生まれたことから、姓を金とし、森の名前も国号も鶏(けい)林(りん)としたという。
そういえば、ニワトリ権現の元となった鶏頂山には、金色の鶏を飼うと長者になるという金(きん)鶏(けい)伝説があり、金氏伝説との関わりも気になるところだ。

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ニワトリに関わる神社は東北に多い。ニワタリ、ミワタリ、オニワタリなどと言われ、庭渡、荷渡、水渡、二渡、御渡、鬼渡などと記される。

例えば、亡母の故郷(福島県伊達市梁川町)にある「庭渡(ニワタリ)」神社の由来では、古くは荷渡(ニワタリ)で、起源は水渡(ミワタリ)だという。水渡はミト、ミナトとも読み、現在の港と同じ意味で、川を渡るときの安全を祈願した。地元の伝説では、源義家が鶏の導きで容易に阿武隈川を渡ることができたことに感謝して、鶏神社を建立したのが始まり。社前の池(オミタラシ)の水は「ケッケロ」(百日咳)の妙薬で、治癒すれば鶏の絵馬を奉納した、とされる。

さまざまな伝承が、ニワトリの信仰に変化したとも思えるが、神社名に、渡の字が多いことは興味深い。その昔、何かが渡ってきた(やってきた)ともとれる。

会津には、鬼が渡ると書く「鬼渡神社」が多い。オニワタリ、ニワタリ、キワタリなどと言われ、全国で18社しかない珍しい神社だが、そのうち16社は会津に鎮座する(猪苗代湖周辺の郡山市2社を含めて)のである。
その16社の分布は、南会津郡5社(南会津町2・只見町2・下郷町1)、河沼郡5社(柳津町3・坂下町1・湯川村1)、会津若松市3社、喜多方市1社、郡山市2社となるが、ほかに多くの小社もあるはずだ(参考:戸矢谷学氏『鬼とはなにか』)。

その鬼渡神社では、ほとんどが「阿(あ)須波(すは)神」「波比(はひ)岐(き)神」を祀る。「アスハ」は屋敷・足場の神、「ハヒキ」は境界・門の神とされ、専門家でもよくわからない神のようだが、ひとつ手がかりになる伝承があった。それは、「アスハ神は、足羽(あすわ)地域の土着の神で、葦(あし)葉(ば)神、あるいは、土の神である」というものだ。

足羽地域、つまり福井市足羽には「足羽(あすわ)神社」が鎮座する。継体(けいたい)天皇(5~6世紀)が皇子の時代、福井平野の治水事業の成功を祈願した場所で、その際に、三柱の井戸の神とともに祀ったのが、アスハ神・ハヒキ神だ。

当時の福井平野は、暴れ川といわれた九頭(くず)竜川(りゅうがわ)の氾濫域で、広大な湿地帯だった。「ヲホド王」(継体天皇の皇子時代の名)は、この地の大規模工事を行い、一帯を稲作に適した水田に変えたのだ。

この大事業には、渡来人(おもに新羅人)も多く従事したが、とりわけ重要な鉄器の生産を指揮したのが、ヲホド王だといわれる。ヲホドのホド「火(ほ)床(ど)」は、おそらく製鉄や鍛冶に用いる炉のことだ。

湿地帯には、植物の「葦(アシ)」が繁殖する。鉄分の多い場所では、その根が鉄イオンを吸収して「褐(かつ)鉄鉱(てつこう)」をつくり、これを燃やすことで鉄ができる。

福井平野には、白山から連なる火山系の山々を源流として、九頭竜川、足羽川、日野川が流れる。今でも砂鉄が多く採れ、たたらの跡も多いというが、湿地帯だった時代に、褐鉄鉱が豊富に採れたことは間違いない。

つまり、「アスハ神は葦葉神」とは、褐鉄鉱による製鉄に結び付く。のちに製鉄の主な材料は砂鉄になるが、その製法も含めて、アスハ神は古代製鉄の神だと考えられる。砂鉄の採集には大量の土砂が使われるから「土の神」とも言われたのだ。

当時、鉄はなにより貴重だが、山では砂鉄のほかにも多くの鉱物が採れるから、アスハ神は、広義に山の鉱物採集に関わる神なのだ。
もう一方のハヒキ神は、境界・門の神だった。その役目は、貴重な資源のある場所に門をつくり、結界を張り、よそ者の侵入を防ぐことである。つまり、この二柱の神は、製鉄民(山の民)の奉じる神ではなかったか。

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砂鉄を原料とする「たたら製鉄」では、燃料として大量に木材を必要とする。やがてはげ山になれば、製鉄民は資源を求めて山々を渡り歩くことになるが、豊かなブナ林があり、多くの鉱物資源が眠る会津は、まさに彼らが目指す場所なのである。

古代史研究家の沢史生氏は「産鉄業と辰砂(しんしゃ)掘りは同一の民の生業」と指摘する(『鬼の日本史・下』)。辰砂とは朱や水銀の材料となる鉱物のことだ(筆者は以前『高寺山伝説・黄金と朱』で、古代会津と辰砂の関りを考えた)。

製鉄民(山の民)は、たたら製鉄も鉱物採集も行うのだから大変な重労働である。劣悪な生活環境でがむしゃらに働く姿は、会津の村人の目にどのように映ったのだろう。

たたら製鉄の真っ赤な火と格闘する彼らを、村人は「赤鬼」と呼んだかもしれない。
鬼、というと恐ろしいが、「天狗と同様、鬼は信仰上では山の精霊であり、鬼になじんだ村人が酒肴や食物などを与えたお礼に、薪や皮などをもらったというのはよくある話である。」(『日本の神様事典(川口賢二氏編著』)というように、ここでは少々柔軟な発想をしたい。

製鉄民が採集した鉱物や薬草で、薬を調合するような集団もいただろう。その薬で村人の病気が治ったとすれば、神業(かみわざ)のような意味合いで「鬼の仕業(しわざ)」だ。おそらく、日本人離れした風貌の渡来系の民もいたのだろうが、さらに、鉱物の神に祈りをささげ、呪文を唱える集団でもいれば、そこはまさに神秘的な鬼の里となる。

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山の民は、資源がなくなれば次の山へと渡り歩くのだから、鬼の里の集団もやがてその山から姿を消す。
しかし、山の民との交流をとおして、村人に受け継がれたものもある。たとえば鉄の技術からは、開墾用の鉄器・木工具・釣り具が改良され、生薬の製法なども残ったのだろう。一部の山の民はその地に残り、山伏のようにその地の信仰を支えたのかもしれない。

山の民の痕跡はいつしか鬼の伝承となり、彼らの奉じたアスハ神・ハヒキの神も後世まで祀られ、やがては人里へも伝えられる。鬼渡神社にはそんな歴史が隠されているように思える。

沢史生氏によれば、「古代の製鉄民は、やがて中央政権から鉄を奪われ、凋落の運命を担った」という。もとより支配から逃れ生きた人々だから、忘れ去られる運命にあったのかもしれない。
五穀豊穣の祈りも、本来は、国土開拓を支えた「鉄」の神などの功績のもとに成り立つ。しかし、それらの神々を奉じた民が忘れられたように、神自身の本来の性格もあいまいになり、やがて現世利益の信仰へ変化していったのではないだろうか。
病気平癒を祈るようなニワトリ信仰を持つ神社も、元来は山を渡ってやってきた製鉄民たちの歴史を残しているのかもしれない。  (終わり)
 

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