美樹さやかと偉大なる絶望
今日は3月8日、さやかの日です。私は、アニメシリーズ『魔法少女まどか☆マギカ』に登場する美樹さやかというキャラクターが大好きです。私はこの日を機会に、彼女の生を褒め称え、彼女への愛を語っていく記事を書こうと思います。ここで私が描き出すのは、「偉大なる絶望者」としての美樹さやか像です。私たちは彼女のように、自らの宿命のために、その魂を絶望の炎で焼き尽くすことができるでしょうか?
美樹さやかは軽蔑した
美樹さやかは、正義の味方に憧れていました。彼女の正義感の背後には、いつも先輩魔法少女、巴マミの姿がありました。「マミさんのような正義の味方になりたい」、その気持ちが彼女の原動力でした。
なんでも一つだけ願い事を叶えてもらう代わりに、戦いの運命を課される。そのような契約によって、彼女は魔法少女になりました。彼女が叶えた願い事とは、彼女が密かに想いを寄せているバイオリニスト、上条恭介の腕を不治の怪我から治すことでした。
魔法少女としての戦いの中で、彼女は「悪」と出会います。それは「彼女の定める悪」でした。隣町のベテラン魔法少女、佐倉杏子は、自分の利益のために、他人を犠牲にするような魔法少女でした。それは他人の利益のために自身の魂を捧げた彼女にとって、許し難いことでした。
彼女はそんな佐倉杏子に激昂し、飛びかかりました。しかし、相手はベテラン魔法少女でしたので、彼女は何度も打ちのめされてしまいます。しかし、彼女は何度でも立ち上がり、決して悪への敗北に甘んじませんでした。ここから、まず私たちは彼女の正義への執念を認めるべきでしょう。この正義への執念こそが、彼女を「没落」させ、完膚なきまでに絶望させる一因となるのです。
ツァラトゥストラの愛する者—大いなる軽蔑者
ここで、ある哲学者の話をしましょう。ドイツの哲学者、ニーチェです。彼は末人—自らを軽蔑できない人たち—が支配する世の中の足音が迫る時代において、『ツァラトゥストラはこう言った』という本を著し、自らの価値を創造する超人、そして没落者としての—自らの徳を宿命とし、そのために生きようとしたり、死のうとしたりする—生き方を提唱しました。
ニーチェは、自らを軽蔑できない人を何よりも軽蔑していました。彼は自己満足に甘んじ、地上を超えた希望を説く人々の方ではなく、自らを軽蔑し、そのために全身全霊を込めて生き、その炎で自らを焼き尽くす人々の方を賞賛しました。
美樹さやかはあまりにも後者であったように私には思えます。
あなたは「あたしって、ほんとバカ」と言えるか
美樹さやかの徳とは、見返りを求めずに正義のために戦うことでした。そして、そんなことは不可能でした。自らの内に利己心を認める、ただそれだけで、彼女は破滅していきました。
美樹さやかの幼馴染、志筑仁美も、上条京介を慕っていました。彼女は、その恋心を美樹さやかに打ち明けます。そして「あなた自身の本当の気持ちと向き合えますか?」と迫った上で、美樹さやかへ一日の告白の猶予を与えます。
美樹さやかにとって上条恭介への告白とは、彼の腕を直した恩人となることで自らの恋心を満たすということでした。そしてそれは、魔法少女となる祈りを自らのために利用することを意味します。そんなことは彼女にはできませんでした。彼女は利己心のために戦う魔法少女を憎む、絶対に自分のために魔法を使ったりしない正義の味方だからです。しかし、この直後から彼女は、自分自身の内にある利己心に気づいていきます。
以前志筑仁美を「魔女」から救ったことを、ほんの一瞬だけ後悔する。一番大切な友達を怒りに任せて罵倒し、傷つける。自分がずっと守ろうとしてきた世界の醜さを目の当たりにし、怒りを覚える。これらは、彼女の中の利己心の存在を証明し、彼女を絶望まで連れて行くのに十分な出来事でした。それでも彼女は最後まで「利他の心を持った正義の魔法少女像」にすがり、痛みを遮断する魔法による敵への特攻、「魔女」を倒して手に入る「見返り」の拒絶によって、どうにか自分自身の精神の均衡を保とうとしました。しかし最後はそれも打ち砕かれ、完膚なきまでに絶望してしまいました。
これが彼女の最後の言葉でした。こうして彼女は絶望し、彼女の魂は恋慕に囚われた人魚の魔女となりました。
あなたはこのように絶望することができるでしょうか? 彼女のように最後まで自らの正義を貫き、そして自らの悪の目撃者として絶望していくことができるでしょうか? それができた彼女は偉大です。あれは偉大な絶望だ。
私もあのように生きたい。火花のように弾け、自らを散らしていった彼女のように。ただし私は絶望を超えて生きたい。彼女のように執念深く生きることができたなら。
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