曽野綾子『ほんとうの話』「卑怯者について」
(ハイジャック事件において)
「人質もろともの犯人抹殺論が卑怯だというなら、
『そうした人には、今度ハイジャックが起きたら、真っ先に人質身代わり要員に名乗り出てもらいたい』という発想も同じくらい卑怯である。
いざとなると逃げるのと、他人に押し付けてその役を買って出ないのとは、
そういう点では同じなのである。
つまり、
私たちは、誰も彼も、みな卑怯なのだ。
その点では面白いくらい同じだ、という事をはっきりと認識しておくべきだと私は思っている。
しかしそれでもなお、
常に正義のために死ぬ人はいた。
今の世にもいないとは思わない。
自分が卑怯者の列に入るか、誰が勇者なのか、
それはその時まで秘密である。
そして私は、卑怯でも我々は許されるのあろうと、思っている。
ただし、
自分の卑怯さを自覚し、頭を垂れ、死んでいってくれた勇者に向かって、
自分はあなたの足許にも及びませんでした、と涙する時だけ、
私たち卑怯者も辛うじて動物ではなく、
人間の末席に加えられることが
許されるかも知れないということである。」
・・・
自分が究極の場面に出くわしてしまった時に
卑怯者となることの自覚ができるのかという点で
人間として末席に加わることができる。
・・・
(動物の中にも仲間を助けようとすることが分かっている。決して人間が上で動物が下というわけではないと私は思っている。)
・・・
自分の事を自分では卑怯者と認めない人が
本当の卑怯者となる。
自分自身の中に
卑怯な部分があることを認めていることが
人間として生きてゆくことができるというのだ。
・・・
自分の中の
卑怯者の自覚
悪の自覚
・・・
目を背けて
考えることから逃げていると
この自覚はずっとできない。
・・・
逆説のようだけれども
この卑怯者であるという悪の自覚ができるようになって初めて
崇高な人間となることができるということである。
・・・
自分の中にそれを認めない人が
自分の事は棚に上げて
人を平気でつるし上げることができる人となるのだ。
・・・
私たちは
謙虚に
自戒しながら
生きることで
本当の
人間となる。
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