「母親」
何かを言葉にしたいのに
うまくまとまらないまま
誰に何を話したいのか、伝えたいのか
わからないまま
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自分の子どもはかわいい。
ようやく思えるようになってきた、という感覚が近い。
元々子どもは好きだったから、子どもと関わる仕事をしていたくらいだし、自分の子どもも自然とかわいいのだろう、そう思っていた。
けれど実際には、他人の子はかわいい。
そんな多くの人とは真逆の感覚がずっとあった。
自分の子どもは勿論大切だし、愛らしいなと思う瞬間だってあるのだけれど
率直に言うならば、荷が重すぎるのだ。
自分の子どもへの言葉、態度、どういう環境や選択肢を提示するのか
自分自身の言動が子供に与える影響を思うと
自分が親であることが申し訳ないと思ってきたし(それは今も思う)
特に次男が今回入院して、自分が何かしらのシグナルを逃してしまうと命に関わりかねないと思ったら
重たすぎるというか
自分一人には背負えない
そう思った。
もちろん実際には、
自分の家族も一緒に背負ってくれているし
保育園も行かせてるし
友人の何気ない会話に支えられることも多いのだけれど
「母親」
それは自分が、なりたかったものの一つであるにも関わらず
母親=子育ての主体者
この構造が私にとっては
やめてくれいと悲鳴をあげたくなるほど
自分では背負って歩けないような
そんなものだった。
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その私が
自分の子どもはかわいい
少しずつでもそう思えるようになったのは
なぜだろう。
考えてみたら
次男が早産で生まれ
今通院やリハビリが多いことで
夫や家族が物理的にも子育てを一緒に担ってくれるようになり
この子を育てるのは私だけじゃない
そう、少しだけだけど
思えるようになったからかもしれない。
それでも
基本的には
私が子育ての主体者であり
それはやっぱり
自分には荷が重いなというか
ついこの間までただの人、一個人だったのに
出産した途端に
母親というアイデンティティを急速に付与され
そのラベルに自分自身が呑み込まれてしまうような
そんな感覚がある。
だからどう、という話でもないのだが。
ただ聴いて欲しかっただけなのよ。
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