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むかしを訪ねる面白さ

芥川龍之介の記した「愛読書の印象」という文章を知っていますか。
(リンクは青空文庫さんより)

タイトルの通り、芥川さん本人がこれまでに愛読してきた本をぱらぱらと紹介していく短い文章です。
登場人物の名前をことごとく暗記してしまったほどに熱中した作品のことや、趣味や物の見方に大きな曲折が起こり、以前好きだった系統の作品がいやになってしまったこと、とかとか。そんな内容が残されています。

山部赤人の残した、富士山を詠んだ長歌を読んだことはありますか。

山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)、富士の山を望む歌

天地(あめつち)の 分かれし時ゆ
神(かむ)さびて 高く貴き
駿河なる 富士の高嶺を
天の原 振りさけ見れば
渡る日の 影も隠らひ
照る月の 光も見えず
白雲も い行きはばかり
時じくぞ 雪は降りける
語り継ぎ 言い継ぎ行かむ
富士の高嶺は
(万葉集 巻三・雑歌より)

ちなみにこの長歌に読み添えてある反歌は、
「田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」です。
百人一首にある「田子の浦に……」の句の原歌でもあります。
あっ聞いたことがある、という人も多いはず。

彼の場合は、時の帝の聖武天皇に仕え、各地への行幸(=天皇が外出すること)に随伴し、うつくしい景色を歌に詠んだ……とされています。
となると、「お仕事」としてあちこちを回って歌を残したのかもしれません。
さておき、こんな歌が残っているのは事実ですね。

そんなこちらの長歌なのですが、私が注目したのは結びの五七七、「語り継ぎ 言い継ぎ行かむ 富士の高嶺は」という部分です。
私の敬愛する先生は「この富士の(うつくしい景色を)まだ見ぬ人に伝えるためにも、語り伝え、言い継いでゆきたいものだ」と解釈されていました。
その解釈を聞いたとき、ああ、なんてことだ!だと震えたことを鮮明に覚えています。
なぜなら、今を生きる私たちにも、いやもっと言えば、まだ富士山をこの目で見たことのない私にも、どんなに富士山がすばらしかったのか、この長歌を読めば伝わってくるからです。
「語り伝えてゆきたいな」と述べていただけに、目一杯手を振って「伝わってるよ!」と返したくなる。そんな感じです。ありがとう山部赤人さん。伝わりました。
もちろんお仕事として詠む以上、行幸先の景色を褒め称えるのは必然であったとも言えるのですが、それでも。

いつか富士山を目にしたときにはこの歌をまた思い出して、「お聞きしていたとおり、すばらしい眺めでした」と答えられる日も来るのでしょうか。
なんて思うと、この歌が残っていて、今に伝えられていることがとても幸せなことに思います。

「博士の愛した数式」で知られる小川洋子さんは「心と響き合う読書案内」の中で読書が持つ根本的な喜びの一つに「顔も知らない、すでに死んでしまった人々と会話する」ことがあるとおっしゃっていました。

この文章を初めて読んだときは嬉しかったです。
流れた時間を飛び越えて、むかしの人と会話し合うような感覚……わあ、やっぱりそう感じる人がいた!と思って。


むかしを訪ねることで新しい発見を得る、古くて新しいなんてちょっと不思議。でもその通りで。
今、私がむかしを訪ねることができるのは、それを残そうとして残した人が生きていたから。
残されたものを、これからも残してゆこうと努力した人が生きていたから。

顔も知らない人、名前さえ残らなかった人、そんな人々の存在があってこそ、今こうして訪ねることができるのだと思うと、本当にすごいことであると強く思います。

「伝え残そうとする人」は、時間を費やし、ときに心を酷使し……命を削ってまで残そうとするわけですから、もう敬服するほかありません。
そして今足を運べば観られる史料もきっと、残そうと苦心した人がい続けたからこそ、見る人の目の前にあるのではないかと思います。基本的に、何もしないで勝手に残るようなものでもない気がして。

今秋京都で開かれた「京のかたな」展で実際に時を越えてきたかたなの数々と相対したこと、二条城で現在進行形で進む「一口城主募金」の取り組みを知り、少しだけでも参加できたこと。
環境の変化から疲れていたとき、あるゲーム経由で知った「山手線にはねられて重傷を負うも驚異的な早さで快復した」「実はアウトなおクスリ打ってた」など、思わずツッコミたくなる文豪のエピソード群に触れ、笑えないのにおかしくてたまらなくなって元気が出たこと、とか。
他にも書ききれないほどのいろいろな出来事が重なった結果、こうして今こんなものを書き残そうと思ったのかなと思います。

というわけでつらつら書いてみました。

最後までお付き合いくださりありがとうございます。

ヘッダー写真は京都粟田口、粟田神社さん(の坂)でした。