遠雷3

新宿方丈記・33「遠雷」 ③

表の部屋で、母親がミシンを踏んでいる。調子の良い、カタカタいう音を背中で聞きながら、少年は奥の座敷で遊んでいた。天気の良い日に、窓もカーテンも開け放しで、部屋中が光でいっぱいの時は、この部屋も少しも怖くはなかった。畳の縁の上をはみ出さないように端から端まで歩いてみたり、陽溜りに手で影絵を作ったり。時々は、何かしら少年の物を縫っている母親に呼ばれて寸法を合わせたり、ミシンの横にくっついて邪魔をしたりもした。それにも飽きると、廊下を走って遊んだ。玄関から居間までのさして長くもない廊下だったが、遊ぶには丁度よかったし、夏は家の中で一番涼しい場所だった。つやつやとした蜜色の床板は、裸足の足の裏にひんやりと冷たかった。玄関から出発してミシンの音を右に聞きながら台所と居間の間を通り過ぎ、開け放しの奥の座敷まで一気に駆け抜ける。帰りは逆で、座敷から玄関まで走り、玄関のドアの前に転げ落ちそうになってやっとの事で止まる。行ったり来たりしながら、途中で面白いことを見つけると、もちろんそこで中断してそっちに行ってしまう。長い長い午後だけれど、することがたくさんありすぎる。と、少年はいつも思う。何か新しい遊びを発見して熱中しだした頃には決まってもう夕方で、買い物に行く時間になってしまう。けれど少年は、母親と道草する楽しさを知っていたから、いつでもどんなお気に入りの遊びでも放り出して、ズック靴で表へと駆け出して行った。

少年は洗濯物に隠れて目を閉じ、両手で耳も塞いだまま、しばらくじっとしていた。相変わらず、鬼たちの足音は続いている。「お母さん…。」少年は小さな声で呼んでみた。返事はない。だんだん鼻がツーンとして、涙が出てきた。少年はもう一度、今度は涙声だったがさっきよりは大きな声で母親を呼んだ。「お母さん!」しかしやはり返事はなかった。窓の外が白く光り、雷がひときわ大きく暴れた時、少年はとうとう洗濯物の中から飛び出した。「お母さああああん!」母親がどうしたのと尋ねる前に、少年は母親にしがみついていた。大声で泣きじゃくりながら、やっとそっと目を開けてみたものは、鬼でも雷さまでもなく、驚いた母親の顔だった。もう言葉にならなかった。安心するとまた、余計に涙が出てきた。少年はそのまま、夕立が通り過ぎるまで、ずっとしゃくりあげていた。膝に畳の後をくっきりと残して。

遠くで雷が鳴っている。白粉花の香りにクラクラしながら、坂道を登る。少年より背の低くなった母親が、ドアを開ける。裸足でランニング姿の自分が走ってきそうな蜜色の廊下を、今日はゆっくりと歩く。遠い線路の軋んだ響きに「雨が近いわね。」と言いながら、母親は奥の座敷に入って行く。床の間の前の陽溜まりに、きちんと畳んだ洗濯物が置いてあった。遠くで雷が鳴っている。泣きながら母親の膝で聞いた、あの音が聞こえる。

(終わり)






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