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自転車の君

ある会社で総務をしていた時。
粉骨砕身、獅子奮迅、居心地良いながらも忙しく働いていたある日、突然、辞令がおりて、経理部に異動になった。

青天の霹靂で、少なからずショックだった。かつて総務で働いていて産休に入った先輩の穴埋めの形で総務部に配属になった私だったが、一生懸命に勤めていて、新卒の新人も抱えて、中堅になったつもりだった。

先輩が復帰して、それにともないなくなったのが私の居場所であり、総務から追い出された形だった。そう私は受け止めた。
私はその程度の評価、なのかと傷ついた。

経理はやったことがない。
いまなら、それもサラリーマンの定めと割り切るだろうが、悲しかった。
会社の人たちとの飲み会を利用して、わたしはしこたま呑んだ。飲んで吐いて呑みまくった。

帰りの電車の中でいつものようにシャンティを聴く。浄化される。
ふいに、自分がハグされたような錯覚を覚えた。涙腺が崩壊した。彼女にそっと後ろから抱きしめられたような感覚に、わたしは泣きまくった。人の目など、問題ではなかった。

地元の駅で電車を降りる。歩いていると、後ろから「大丈夫ですか?」と声がした。
見ると、自転車を引っ張りながら、若い男の人が後ろを歩いていた。オレンジ色のマウンテンバイクみたいな自転車だった。フレームが細くてオシャレだ。

なぜだか一緒に帰った。
「あなたが心配だから」

そんなようなことを言われた気がする。

わたしは総務から経理に異動になったと話した。

家の近くの、誰もいない小さな公園の、ベンチに座った。
あ、指輪してる。へぇと思った。
男の手がわたしの顔に触れキスをされるんだとわかった。
彼の左手の指輪に気づいていたためもあるし、それは嫌だと拒んだ。

それから何かを、少し話したような気もする。あたたかな気持ちになって、家に帰って、眠りについた。

翌朝。
一緒に暮らしていたお姉ちゃんが、わたしの顔をみるなり朝一番にこう言った。
「文ちゃん!昨日すごい足音だったけど大丈夫だった?!」


わたしは悟った。

千鳥足だったかー!

わたしは、駅から千鳥足で歩いてる自分を想像し、しばらくにやにやが止まらなかった。

心配してくれたどこの誰だかわからない君、ありがとう。
奥さんは大事にしろよ。

街には優しさが落ちている。

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