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私という呪縛

おはようございます。
今月、山門文治さんにピックアップして頂いた記事が2つあるのに、どこにお礼のコメントをしたら良いのか分からず、21日から彷徨っているアラフォーです。

先日、投稿した、人生論?の記事で、過去のいじめの詳細を書いたのですが、辛い思い出を思い出はことで、体調を崩していた。

いじめって、受けた側は、ずっと、心に深い傷を負い続けるのだな、とつくづく思う。

リンクを貼っておきますので、もしご興味がお有りでしたら、一読なさって頂けると、幸いです。


私の記事に、スキ、をしてくださる奇特な方々に感謝。

わぁー、私の記事にスキを頂いた!と、とても嬉しくて、胸が躍る。

私も、スキ、をお返ししなくては!と思うのですが…。
鬱の症状で、集中力が続かず、長文が読めないので、他のクリエイターの方の記事を読んでいても、途中で断念することに。
下の、スキ、まで辿り着けない、という残念な結果となる。

絵を描きたいなぁ、と思っていたら、イラストを描いている方がスキをして下さったり、
曲を作りたい、と思っていたら、曲を作っている方がスキをして下さったりして、
コメントをして、色々聞いてみたい!と思うのですが、
いや、Yahoo! 知恵袋で聞けよ、と思われないか?とか、
そんなのググれよ、と嫌がられないか、とか、
過去のいじめの影響から、気持ち悪いと思われるかも、等と、被害妄想が加速してしまい、コメントのボタンをクリックする右手人差し指が、震え、全身から変な汗が出る・゜・(ノД`)・゜・。

ご迷惑をお掛けするだろうなぁ、と思うと、なかなか前に進めない。

自分を縛る呪縛から、自分を解き放つことが出来るのは自分なんだ!と、分かっているけれど、脱却は、難しい。

私をいじめたり、暴言を吐いたりした人たちの行いは、正しくない。

そんな人たちの言うことを信じて自分が苦しむなんて、本当に、馬鹿みたい。分かっているけれど、割り切れない。

ひとつだけ、私は偉かったな、と思うことは、五寸釘と藁人形を買いに行かなかったこと。まぁ、これだけは、自負しても、許されるだろう。

私は、私を大切にしない人を、私も大切にしないことにした。

そう思えるようになったのは、家庭内暴力をする姉から逃げた時だった。

それまでは、耐えなくては!と、ずっと、頑張ってきた。

自分勝手、や、薄情、と思われるかもしれないが、自分のことは、自分で守らなくてはならない。

白馬に乗った王子様が来て、助けてくれる、なんてことはない。
もしそうだとしても、この歳になると、相手は、老馬に乗ったお爺様かもしれない。あっ、お爺様も素敵ですよ。

自分を自分で守る。

自分を肯定することが、難しい。

自分を肯定出来なくて、心が病んでいく方も多いのではなかろうか?

今の社会は、まだまだ精神障害者への理解が進んでいないと思う。

見た目だけ見て、普通なのにね、と言う人たちに、うんざりする。

いやいや、症状の酷い時に、人に会うわけないだろ。あんた達の前に出てくる時は、落ち着いてる時なんだよ、と思う。

そんな、考えれば分かるようなことを、平気で言われることが、多い。

精神病に限らず、癌の患者さんだって、見た目では分からない。

見た目では分からない人を病人として捉えない人たちに、苛立ちを感じる。

見た目では分からないのに、としつこく言う人がいて、「そんなに言うのなら、あなたは、風邪で高熱が出ても、動けない、なんて言わないで下さいね。風邪だって、見た目では、少し顔が赤い程度でしょ?その状態で、走れと言われたら、走れますか?」と、言ったことがある。
その後、その人は、見た目云々は言わなくなった。風邪で走るのが相当嫌だったのだろうか?

どんな病気でも、苦しいことに変わりはない。

それを理解してあげようとする努力を、何故、怠るのか?

今の社会全体が、薄情なのだと思う。同じく、人々も。私にスキをして下さった方々は除く。

勿論、他者を完全に理解してあげることなんて、不可能だ。

だけど、それに対する努力は、するべきではなかろうか?

それが、人の価値ではなかろうか、と私は思う。

苦集滅道、自分が苦しいと、人への思いやりを忘れてしまう時がある。

だとしたら、薄情な社会全体が、人々が、今、苦しみの流壺の中にあるのかもしれない。

こりゃ、大変だ。社会自体が病人なのだ。

何かしたくても、私には、何も出来ない。

ちっぽけな私。

私は、私の心から変えることにした。

少しでも、誰かの幸せを願うことに努めた。

小さな努力でも、積み重ねれば、いつか大きな結果が出る。

優しくなれない時もあるけれど、それも自分。

自己嫌悪に陥る暇があるのなら、反省して改善する努力をすれば、いつかは立派な人間になれるかもしれない。

なかなか立派な人間になれなくても、努力した自分に拍手。

だけど、私は、今まで、自分を肯定することが出来なかった。

私は、自己肯定感が低い。

自分の好きなところは、なかなか出てこないが、嫌なところは秒で出てくる。

以前、教師をしていた頃、生徒に、頑張っているのに自分を認められない子がいた。

私も同じだ。なので、どうしても救ってあげたくて、色々考えた。

だって、可愛くて、可愛くて、そして、可愛い生徒の為だ。何としても、一緒に克服してあげたかった。

私は、大学生の時に、自分が気づいたことを実践してみた。

ある講義で、自分の好きなところを10個、書いてみよう、と言われ、書けなかった。
最初の3個位で、ペンが止まった。

その講義中に書けなかった人は、10個全て書き出すことが、課題になった。

書けなくて、悩んだ末に、ふと、嫌いなところを書き出してみようと思った。

出てくるは、出てくるは、ザクザク出てくる。
大収穫祭だ。

それを、反対の意味に転換していくことにした。例えば、白黒はっきりさせてしまう→正義感が強い、の様に。

その様にして、その課題を切り抜けることが出来た。

悩んでいる生徒にも、同じことをしてみた。

その生徒が、自分を否定すれば、私は、全力で肯定しまくる。

そんなやりとりの最中に、その生徒の瞳が、徐々にキラキラと輝いてくるのが分かった。

その表情の変化を見ていて、私も、胸が熱くなり、目頭も熱くなった。

その生徒は、その後、ケアレスミスも減り、テストの点数も、成績も、グンと上がった。

その生徒の努力量は、それまでと、さほど変わった様子はなかったが、自分に自信がつくだけで、人は自分の能力を更に伸ばすことが出来るのだなぁ、と、しみじみと実感した。

その体験を踏まえて、私も、私を、肯定することにした。

努力した自分に拍手、なんて、図々しいと思うが、私が私をどう思おうが、私の自由だ。

私をいじめた人たちは、正しくないが、それをどう受け止めるか、は、私の心の問題だ。

ずっと、人を恨んで、傷を引きずって生きるのか、私を成長させてくれた、と捉えて、前に進むのか。

私は、心の汚れた人間になりたくない。

いつでも、心を天国に。

幸不幸は、心次第。

私は、いつでも、前に進む道を選べる人間になりたいと強く思う。

自分を縛るのは自分だ。

だけど、自分の人生を切り拓くのも、自分自身なのだ。

ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

素敵な一日であります様に。
































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