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今日も我が家は 「私が生まれた時」

この頃、1960年代にフラッシュバックすることが多い、私は父と母と一棟が5軒か6軒からなる平屋作りの長屋が建ち並ぶ一角に住んでいた。

おそらく6畳と8畳ぐらいの二間に押し入れ6畳の奥に板の間のキッチンが3畳ぐらいのスペースでその隣に玄関、トイレそしてキッチンの前におそらくお風呂場でもあったかの様な物置小屋、南面には小さな庭があった。

後から知ったのだがキッチンには白い大きな冷蔵庫があり6畳間の西側にスピカーがついたテレビがテレビの上の蓋を開けるとレコードプレーヤーがついていた。

その冷蔵庫の隣りに氷を入れて使う木で出来た冷蔵庫もあって、それが欲しいと誰かが来ていた。

つい、遠い記憶が蘇る。

洗濯機は洗濯槽に挟んでしぼるロール式の着いたやつが記憶が定かではないのですが見た様な気がします。

そしてその隣の8畳間にはコイル付きのそれこそその日本家屋には不釣り合いのダブルベッドが占領していて、その奥に私のベビーベッドが置かれていた。

おそらく二、三歳の記憶なのだろうか私のベビーベッドに真っ黒でビニール製の人形のダッコちゃんが二つぐらい付いていた。

テレビから聴こえていたのは「こんにちは赤ちゃん」梓みちよ「高校三年生」舟木一夫 の歌が聞こえていたのを覚えている。

南側の庭には寝室の前に父が仕立てたのであろうデラウエアの葡萄棚あり、そこでアマガエルを捕まえて見せてくれたり、よく、ぶどう虫を薬で退治していた。

父は良くこの庭に来る虫やカエルを捕まえては見せてくれていた。

多分、それらを私は喜んでいたに違いないのだ。

おそらく、今思うと父と母と私だけで暮らしているのも、あのデッカイ冷蔵庫もレコードプレイヤー・ステレオ付きのテレビもダブルベッドもあの長屋に相応しくないものは母の姉がアメリカの方と結婚して立川の米軍基地からのお古だった事を知るのです。

そしてその時代の核家族化の始まりの様な家族が出来上がっていたのでした。

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