『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[097]吾が名は、ナオト
第5章 モンゴル高原
第1節 林の中の出会い
[097] ■4話 吾が名は、ナオト
ゾチロムは何でも聞きたがった。言葉はわからない。指の動きと、身振りと、表情が頼りだった。
「名は何という?」
「ナオト」
「そうか、ナオトという名か。ナオトはどこから来た?」
「ヒダカの国の北、善知鳥湾」
「ヒダカだと……。それはどこにある?」
「ここから東に、あちらの方角に一月走れば海だ。その海を渡ったところがヒダカだ」
ふと思いついて、「海」とヒダカ言葉で言った後に、ヨーゼフから教わったダリャーを口にしてみた。
――ヨーゼフは「ソグド語とは、ペルシャ語だ」と言っていた。ペルシャの短剣を持っているのならば、もしかすると言葉もわかるかもしれない……。
「海、ダリャー」
驚いたさまでゾチロムが返した。
「お前、ソグド語を話すのか……?」
「ああ。少し」
ソグド語でそう答えた後すぐに、同じソグド語で聞いてみた。
「お前はヒョンヌか?」
ゾチロムはもう一度驚いたが、しかしあまり間をおくこともなく、
「ああその通りだ、我らは匈奴。この国もヒョンヌ、人もヒョンヌだ。南の漢人は我らを少し違うように呼ぶそうだが」
そう、平静を装って答えた。
「吾れは、匈奴を探してここまで来た」
「なんだと、我らを探してきた……? 匈奴がここに住むと誰かに聞いたのか?」
「ああ、方角と歩く日数だけだが。ソグド語を教えてくれたヨーゼフという年老いた商人が、匈奴に出会いたいならば西に一月休まずに急げと教えてくれた」
海を渡るのを助けてくれたカケルのことは敢えて口にしなかった。
「……!」
「どうした?」
「どうもしない。ただ、お前の話が信じられないだけだ」
「なぜ、信じられない。吾れは嘘など言わない。確かにそう教わって、急いで来たのだ」
「それはそうだろう。しかし、とても信じられない話だ。お前は、誰か匈奴の男を知っているのか?」
「いや知らない。しかし、一人だけヨーゼフに聞いた名前がある。エレグゼンだ」
「……!」
「どうした?」
ひとつ大きく息をすると、ゾチロムは落ち着いて聞けよといった口調で告げた。
「……。お前は信じないだろうが、吾れがそのエレグゼンだ」
「えっ、なんだと……?」
「吾れは小さい頃、ヨーゼフと会ったことがある。十年前にも一度会った。そのヨーゼフが言ったという匈奴に住むエレグゼンというのは吾れだ。エレグゼンという名はこの辺りではそうは聞かない」
「……!」
――昔、失くした釣り針を、沖で釣ったタイが飲み込んでいて見つけたという話を、吾れがまだ小さいときに善知鳥の浜で村のツキヨミ婆様から聞いたことがある。
タイなんて何万匹もいるだろうに、世の中、不思議なことがあると思った。『そういうことはこれから何度も起きる。そうしたとき、たまたまだなどと思ってはならね。きっと後ろに神様がいる。それで針が見つかった。信じねばだめだ』と、婆様は吾れら子供を集めて言った……。
「おい、何だ? どうした?」
目の前を見つめ、黙って考え込むナオトに向かってエレグゼンが問うた。しかし、なおも黙ったままで動かない。そのとき、突然、ナオトの考えていることをいちいち理解したかのようにしてエレグゼンが大きな声を上げた。
「お前の後ろには神様がいるぞ、きっと!」
そのソグド語はどうにかナオトに通じた。ナオトは左右を見てソグド語で応えた。
「馬鹿を言え……」
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