アップデート
これは今も変わらないのだが、
私はとてもよく学び、とてもよく変わる。
母と生活していた時から、
自分に悪いところが一つでもあるなら直さねばとしてきた。
毎日あらゆるところから理由を引っぺがして
怒鳴られる、罵倒される、
醜いものを見る目で睨まれる。
ずっと自分は悪い所だらけで、
人と目を合わせるだけでも他人を不快にさせる
そんな人間なのだと、母が自分に接する態度から刷り込まれていた。
自分の話なんて誰も興味はないのだと、相手を気分良くさせなければ、私は相手にとって利点を生まない迷惑な存在なのだと思っていた。
常に誰かの脇役になるコミュニケーションが身についていた。
自分が感じたものは無かったことにする。
嫌だった気持ちも、ふわっと喜んでしまった気持ちも、
表情に出る前に瞬時にフタをしてカゴに閉じ込める。
「私」という「主体性」は無かった。
10代の子しては隙の無い、何を考えているのか分からない、人間味の無い、
信用性に欠けた子だった。
コミュニケーションは
まずは心を開いてもらうこと。自分の話をして、敵ではないと安心してもうことから始まり、
それでいて相手の話を遮らない間だったり、
興味を持った姿勢(表情)を感じてもらい、
相手が話しやすいテンポで、相手の言葉から質問作り出していく。
ただ会話をするだけにこう考えてる人なんていないと思うが、
母の元ではまともなコミュニケーションが無かったから、
本屋で「人との話し方」「営業マニュアル本」「心理学」それはそれは関連するあらゆる本を読み、
ノートに書き、会話の方法を学んだ。
本は私にとって縁の無かったおばあちゃんのように感じた。
インプットは十分。
外に出て環境の全てに神経をはびこらせ、
店員さんに話し掛けては質問をしたりした。
家に帰ればノートに反省点を書き、
「こうなってしまった」→「じゃあどうすればいいか」
を芋づる方式に選択肢を割りだす。
毎日は常に、明日は常に、
大事な会議とその前日のような日々。
いうまでもなくストレスを背負っているが
これが当たり前
いや、もっと酷い生活をしていたからこれがストレスだと認識することはなかった。
甘え は嫌だった。
お前はダメだといわれる原因は全て
潰したかった。
自尊心の無さと主体性の無さはイコールする。
主体性を持てないと、
自分がどう感じたかが分からない。
その頃の自分にはいくら考えても分からなかった。
人とのコミュニケーションにおいても、自分という主体は邪魔だと思っていたし、
感情なんていらなかった。
本当は常に怖く、辛く、不安、限界であったが、
それを感じていると認識してしまっては一気にダメになってしまう。
本当はもっと早い時点から人として大切な部分が
欠けた、不良品だったけど
若かった私は体力のままに、がむしゃらに認めずとして学び続けた。
のち、崩壊することとなるのだが
オリジナリティに欠けた私に
メイドカフェという人気商売は不向きだった。
大人になった現在の私も、人が目の前に現れた瞬間から相手の感情が先に入ってくる。
私に植えついた、
自分の悪いところを潰していく為の「学び」は、
呪いの様に終わることなく続いている。
シャワーをしてても、食事を取っていても
歩いていても
数字を無意識に数えていたり、詩人のように言葉が脳に浮かび、その時にしていることがいつの間にか終わっている。
咀嚼の数でもない、何かの数字を脳が勝手に数えている。
気づけばお皿は空になり食事は終わっていたり
たった少しのシャワーですら、普段抑えている感情を吐き出そうとしているのか、詩人のごとく言葉が湧いて忙しい。
常に毎日、休む暇なく何かを取り込み続ける私は、まるでその年ごとにアップデートされる最新機種かのように人間性がコロコロと変わる。
休む暇なく取り込みが続く。
それは病的な程に。
私はいろんな部分を欠いている。
女性性のバランスも悪い。
その話はまた後ほど。
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