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他罰的な人間は真実にたどり着けない

1、賞罰
報復があるかどうかで、やるかどうかを考えるのではなく、道徳的かどうか、真実かどうか、神の心に適うかどうか、という基準でやるかどうかを考えるのが人間としての生き方である。
報復があるからやらない、報復がないからやる、という生き方は、動物と同じ生き方である。
聖書を一度も読んでないのに、聖書やキリストについて語るのは、報復がないから、語ってしまうのだろう。
これでは動物の生き方である。
利害だけで生きるのは動物である。
利害で決めるなとは言ってない。利害だけで決めるなと言っている。
前に豚のような生き方をする人々とも書いた。
犬のような生き方をしてはいけない。
動物のような生き方をしてはいけない。
人間として生きよう。

2、利害だけで
サタンは、人々を地獄へ道連れにするのが目的である。
人々が利害だけで生きるように成れば、聖書を読まないで聖書を語るような神の冒涜をするようになる。
だから、サタン側は、利害だけで生きられるように社会を捻じ曲げる。

3、率直に戒め
恩人の悪行を隠ぺいするのは、恩返しではない。
恩人が暴走するのを制止しないから、見殺しにしているため、恩を仇で返している。
犬なら恩人の悪行に協力するだろう。
しかし、人間なら、仲間の悪行を戒める。

心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。

レビ記 19章17節 新共同訳

武士は、当主の大名が悪ければ押し込めで強制引退させる。
エセ恩返し。
恩人の悪行や暴走を見殺しにするのは、エセ恩返しである。
恩の見返りに悪事の隠ぺいをするのは、タダの商取引である。
芸能事務所の場合は、恩ではなく取引だから見殺しにしたのだろう。
恩に見せかけて人々を餌食にするのをエセ恩という。
所詮はエセ恩だから、恩返しがエセ恩返しになる。

4、どちらにしても
虐待児の特徴が現れている目の前の人が存在するのに、証拠を求める社会。
毒親に虐待されたのか。
芸能事務所で虐待されたのか。
どちらにしても芸能事務所はロクでもない。
毒親に虐待されたのが判っていながら預かって、治しもしないで、金儲けなどに利用するのは確定している。
どんなに善意で芸能事務所を解釈しても、エセ恩返しをするような人間を雇っている時点で、節穴である。なんで、経営者として致命的な恥ずかしい事を公言するのか理解に苦しむ。致命的だから、もう崩壊しているけど。
権力者個人に全て依存する体制なんか作るから、次の代で潰れる。この時点で経営センスが欠落している。

5、証拠
映像証拠を求める社会は、悪人にとってやりやすいのだろうか。
警察も全ての悪行の監視カメラの証拠を出しているとは限らない。
自分の目で、目の前の人の言動で判断できないのだろうか。

6、体力
仕事をする体力が有って、仕事が終わってから他人に難癖を付ける体力が有るなんて、体力が有りすぎるだろう。
それだけ体力に恵まれて何もできないなんて、よほど才能がないのだろう。

7、同調圧力
自分に合う同調圧力の方向性の国はどこの国か、というだけの話で、どこの国でも同調圧力はある。
どこの国もサタンの支配下だから、どこの国でも同調圧力がある
天国だけが同調圧力はない。

8、自分以外
自分以外を悪者にする生き方は、探せば見つかるモノである。
ありとあらゆる事柄で悪行をするなんて不可能だから、自分以外を悪者に出来る分野は、何かしら見つかるモノ。
自分以外を悪者にする生き方は、人間の生き方ではない。
自分が正義を気取れる分野を探すのは、褒められた生き方ではない。
自分が威張り散らせる事柄を探すのは、褒められた生き方ではない。

9、悪心
この世は、俺を含めた全人類の悪心が原因で、あらゆる悪行が実行されている。
この世の命令系統は、神→人間→サタン→闇の勢力→権力者だから、人間の悪心をサタンが読んで、闇の勢力に命令して、権力者が実行する。
だから、この世の悪行は全て、俺を含めた人類の悪心が原因で実行されている。
自分が悪いと考えて因果関係を探ると、真実の神に気が付く。
自分が悪く言われない事柄を探すと、真実に気が付かない。
自己中な人は、聖書を知っていても、知っているだけで、理解できているわけではない。
信じて何回も読んでいても、なかなか読み解くのが難しい。
ましてや、信じても居ない自己中が、一回も読まないで聖書の存在だけ知っていても、何も理解できない。

10、罪を犯さない者は居ない
自分に罪があると考えて因果関係を探ると真実に気が付くのは、罪のない者は居ないと聖書に書かれているからだ。

旧約聖書:列王紀上:8章:46節
彼らがあなたに対して罪を犯すことがあって、――人は罪を犯さない者はないのです、――あなたが彼らを怒り、彼らを敵にわたし、敵が彼らを捕虜として遠近にかかわらず、敵の地に引いて行く時、
旧約聖書:歴代志下:6章:36節
彼らがあなたに対して罪を犯すことがあって、――罪を犯さない人はないゆえ、――あなたが彼らを怒って、敵にわたし、敵が彼らを捕虜として遠い地あるいは近い地に引いて行くとき、

自分の罪を認めない人間は、この部分を絶対に受け入れないから、聖書の全ても受け入れない。
都合の良い部分だけをつまみ食いするだろう。
聖書では自分の十字架を背負えと書いているから、他人の罪を咎めても自分の罪は許されない。

俺は、過去の悪行を人や警察に相談したり、いろいろとやった。
聖書に基づいて、自分の悪行を探したりした。
他罰的な人間は、真実にたどり着けない。
他罰だけをする人は、真実にたどり着けない。
他罰するなと言ってない。自責もしろと言っている。
他罰だけではなく、自責もする必要がある。
真実は、自分の悪心の中に存在するから、自責をする人が真実にたどり着く。

聖書に関係なくても、自分が威張れる事柄だけ渡り歩くのは、褒められた生き方ではない。

11、隠ぺい
自分が悪者にならない事柄を探すどころか、自分も同じ犯罪をやっているのに、犯罪者を叩いて自分の罪をごまかす奴も存在する。

12、自分の犯罪
自分の犯罪に気付かなければ許されると思っているのは間違いである。
気付いていたら、知能はあるから、心を改めれば、二度と罪を犯さなくなる。
故意犯は再発防止は可能。
しかし、気付かないほど知能が低いなら、心を改めても再犯するし、知能を高めるなんて不可能だから、一生に渡って独房に閉じ込めるしかない。
過失犯は再発防止が、ほぼ不可能。
一応、神の存在や概念を理解できないほど知能が低いなら、無条件で天国へ入れると思う。
ただし、他人を罰しているなら、罰の概念は理解する知能はあるため、自分の罪と罰も理解できるから、他罰する人は無条件では天国へ入れない。
知能があるなら、自分で聖書を読んで、神を信じて、聖書を解釈して、神の掟を守れば、天国へ入れる。

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