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謝罪 捨て駒コスト 自意識の限界 選択の自由は罠 反省文は無反省 魂を売る総理

1、鉄砲玉のコスト
捨て駒にもコストは掛かる。
訴訟を乱発している発信者は、自分から鉄砲玉になっている。
誰か他人を鉄砲玉に仕立て上げる工作員がネットには存在する。
しかし、他人を鉄砲玉にしようと思うと十数億円はかかる。
現実レベルでも、極道の鉄砲玉・国家の破壊工作員・表に出て世論操作をする工作員を作ろうと思えば、1人あたり十数億円は掛かる。
これぐらいコストが掛かるか大雑把に内訳をすると、まず方針を決める管理職の人件費、ハニトラで弱みを握るならハニトラ要因の人件費、借金漬けにするにも貸す金が掛かる、護衛の人件費、各種費用などで、十数億円なんか軽く掛かる。
しかも、バレた場合のリスクもあるから、マスコミとかにも口止め料を大量にばら撒かないといけない。そのため、1人の捨て駒を作ろうと思ったら数十億円ぐらい掛かるのではないか。
だけど、自分から鉄砲玉になる動画発信者は、言葉で煽てるだけで自主的に鉄砲玉になるから、数千万円ぐらいしか掛かっていないのではないだろうか。
そりゃ、こんな自主的に数千万円で鉄砲玉になる奴が居たら、数十億円で鉄砲玉になっている工作員にしてみたら、価格破壊されてやってられない。
給料を100分の1にされかねないからだ。
だから、マスコミとかは、この訴訟乱発の人間に対して嫌悪感がある。

2、自意識の限界
自分の意識で働きたいと思うと、意欲を失った時に働かなくなる。
労働問題でうつ病が多いのは、自分の意欲に頼っているからだ。自分の世間体に頼っているからだ。
神の信者なら、神が6日間だけ働きなさいと言うから働くため、意欲は関係なくなる。1日1時間の労働でも天国へ入れる。
偽装キリスト教団が蔓延している欧米では、労働は原罪として働くけど、他人に労働を搾取するようになる。

サタン側は、人々を地獄へ道連れにするのが目的だから、労働を搾取するのは手段・副産物でしかない。
学校の9割が無駄な勉強と、社会の9割が無駄な労働で、人々の時間をそぎ落とす。
なぜなら、神の存在に気付く時間を潰すためだ。
そのため、自分の意志で労働意欲を持つように洗脳する。
もしくは、他人の都合の労働意欲を持つように洗脳する。

労働至上主義で安息日も働いて、安息日を穢すのがサタン側の目的である。

神に頼らないように仕向けて、自分自身に頼るように仕向けるのがサタン側の騙しの手口である。

自分の意志なんて言うけど、実態は自分の気分である。
自分の気分で働いているだけだから、自分の気分で崩れてしまう。

労働賛美で働けば赦されると錯覚するから、神に立ち帰らなくなる。
労働したら赦されるから、労働以外で赦される必要がないと間違える。
労働で赦されるから、神に赦される必要がないと思い違いをする。
労働教とも言える状況になっている。
労働をしたら、それ以外の物事を考えなくなる。

本来、人間は、神に赦されたいと思っている生き物である。
しかし、サタン側が神を隠したから、赦されたい欲が満たせなくなる。
その赦されたい欲を満足させるために、労働で赦されると思い込む。
だが、所詮は代償行為でしかない。
代償行為の偽物だから、満足できなくて、一生、代償行為を続ける。

労働を引退した後は、労働した満足感で赦されると思い込む。
ただ、最近は死ぬまで働けと言われだしたけど。
今まで定年になったら赦されていたのに、赦されなくなった。
人間のルールはコロコロ変わる。
天の主のルールはコロコロ変わらない。イエス・キリストの復活で一度だけ変わった。アブラムの召命でも変わったかもしれないけど、この辺りは少し判らない。2000年ごとで何か変わるのか。

自分の意識に頼っていると、崩れた時に漬け込まれる。
人間の意識は不安定だから、崩れた時に漬け込まれる。
自分の意識に頼ると、配偶者が死んだ時に崩れて、詐欺師に騙される。
漬け込む方が悪いとか言っている連中は、改善の機運を潰す。
漬け込まれる方が悪い。神に頼らず、人間の気分に頼っているから、いずれは漬け込まれるのが判り切っている。
神に頼れば安定して、漬け込まれない。死んだ者の事は死んだ者に任せろと言っているから、信者は騙されない。
悪人が悪いと言っている連中は、結局、悪人に騙される人を無くす事ができない。
掛け声だけで何の効果もない。こんな成果がゼロどころかマイナスにする奴なんか、普通の会社なら首になる。効果的な取り組みを無駄な言葉で邪魔する奴ら。人々の自責心・警戒心をそぎ落として無防備にする。
リーダーの居ない草食動物の群れの内外で、肉食獣が悪いと言っているだけで、何の成果もない。
人間に頼った家畜がライオンに襲われないように、神に頼る人々はサタン側に襲われない。

色んな自意識をとっかえひっかえして、人生が終わる。
サタン側にしてみたら、死ぬまで神に気付かなければ良いから、何千種類の自意識を用意して、試し尽くすまでに死ぬように仕向ける。
選択の自由など存在しない。
選択の自由は、サタン側が作った罠である。
選択の自由は利権ではなく罠だ。
選択の自由が利権だと錯覚すると捨てられなくなって、神に立ち帰った後で選択の自由を捨てる選択ができなくなる。
神に立ち帰るのが唯一の正しい道である。

有害なモノを利益だと洗脳されている。

3、ネタ
AIがネタ切れというよりも、人間そのものがネタ切れなところがある。
昔の作品の焼き直しをするのも、根本的にネタ切れだからだ。
人工知能でコストカットできるから、採算ラインにギリギリで到達できないセミプロは、プロになれるかもしれない。
しかし、創作以外の他の業界も似たようにコストカットできるから、競争が激化するから、逆にプロが脱落するかもしれない。

他人の成功を恨むようでは、どの道、成功できない。特に、今の時代は、作者の人間性も評価の対象になっているからだ。良い悪いではなく、時代の変化に対応できない時点で成功できない。

4、好き嫌い
パウロのスポーツ評は罪深い 好き嫌い人生は地獄行き 家族ディストピア 失敗を認める難しさ|まいやす (note.com)
この投稿の3で好き嫌いの感情について書いた。
好きな料理で祝福を横取り、嫌な奴隷を好き勝手に処分する、いさかい好きな、という、好きの感情はポジティブなのはほぼない。

好きと嫌いは対義語ではないという話を追加する。
好きとは、聖書では自己中な意味合いがある。
そして、学校は、なぜ好き(自己中)と嫌いを対義語にしたのか。
学校はサタンの支配下だから、好きの反対を嫌いにする事で、人々を罠にハメるつもりなのだろう。
「感情的な嫌い」の対義語を好き(自己中)にすることで、人々が好きをポジティブに考えて、自分の好きなモノに囚われるように仕向けるのだろう。

聖書でも好き嫌いは、ある程度は描写されているのだから、好き嫌いで物事を決めても大丈夫だとは思う。ただ、あまりポジティブなイメージでは使われていないから、好き嫌いで決める場合は危険性がある。
好き嫌い人生は地獄行きとは書いたけど、確実ではないけど、かなり危険だと覚悟する必要はある。
本気でダメなら、入れ墨のように一回だけ書いて禁止にする。
例えば「好きでモノを決めてはいけない」とか、そういう書き方を一回だけするはずである。

いさかい好きはいけないと聖書に書かれているから、いさかい好きでなければいい。

5、反省してない
反省文なんか書いても反省していない。
心が読める天の主に立ち帰らないなら、反省していない。
心の中を読めない他人に反省を見せつけても反省していない。
反省していると言っている加害者は、地獄へ落ちるかもしれないのに、よく平然としていられるな。
神に立ち帰ったと言うなら、地獄へ落ちて焼かれ続けたり魂を消される危険性が高いのに、よくノホホンとしていられるな。
永遠に全身を焼かれ続けるかもしれない人間の態度だろうか。反省していないだろう。
全身を焼かれ続ける危険性が高いのに、平然としていられるなら、片手を焼かれても平気なのだろうか。
片腕を切り落として、と聖書にある。

もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

マルコ福音書 9章43節から48節 新共同訳

正直、反省文や謝罪で恥を掻いたとか、ズレていると思う。
罪は神に赦して貰わないと意味がない。非信者たちに侮辱されても、何の意味もない。
現実が判っていないのだろう。
全身を焼かれ続けるのに比べたら、何か意味があるのだろうか、と思う。

前から何回も書いているけど、加害者に対して、自分で復讐するよりも、神に代わりに復讐して貰って、地獄へ落として、全身を焼き続けたり、魂を消して貰った方がいい。
人間の手で復讐して殺しても、数秒ぐらい苦しむだけで済む。
イエス・キリストの隣で死刑になった殺人犯も、死ぬ一時間前に改心したから天国へ入れた。

加害者は被害者に謝罪する形を取らないと赦されない。
しかし、神の信者は、神の教えを携えない者を家に入れないし、挨拶もしない。

この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。

ヨハネの手紙2 1章10節 新共同訳

実質的に加害者は、神に立ち帰るまで加害を赦されない。

神の信者なら、赦しなさいと神に言われているから、既に赦している。
俺も毒親の加害を赦している。だが、神に立ち帰っていないなら受け入れないし、挨拶もしない。しかし、謝罪しに来ないなら、神に立ち帰っていないのは確実だから、毒親は地獄へ落ちる。
被害者が非信者なら、被害者に赦される必要性はない。謝罪の形が取れたら十分である。謝罪の意思を公言したら十分である。
そもそも、赦す赦さないは神の領域だから、人間が勝手に赦す赦さないと決めると神の領域を侵害している。だから、赦さないと言っている被害者は、背教者だから断罪する必要がある。

両方とも信者なら、赦しているし、謝罪する。
加害者が信者なら、謝罪する。
被害者が信者なら、赦す。しかし、会わない。
両方が非信者なら、自分勝手に好きにしたらいい。

被害者利権を貪りたいから、無意識に被害者になるような行動をして被害に遭ってしまう。
神の信者なら、被害者利権は絶対に手に入らないと思っているから、被害者にならないように行動する。
被害者利権を貪っている奴らは、100%非信者か悪魔崇拝者だから、相手してはいけない。

6、サタンに魂を売る
国民に裏金問題の判断を丸投げする総理。
得票数と支持率はサタン側の捏造なのだから、捻じ曲げて支持されたと言い出す。
何かを生け贄にして、政権維持の褒美を貰ったのだろうか。

スポーツ選手とギャンブル狂いの両者は、どちらも踏み絵を踏まされているだけだったりして。
直感的に思いついただけで、特に根拠はない。
ただ、子供が直感で感じた事はたいてい正しい。
大人でも直感の9割は正しいという話もある。

人間は変なモノで、何か問題が発生すると、片方が悪いと思いがちだ。
なぜ、片方が悪いと思うのか。それは、納得できるからだ。自分が納得したい形で幕引きを図るのが人間の悪い癖である。
サタンに魂を売ると、何か変な動きが周りで発生する。

友情を生け贄に捧げるとか、そういうのもあるのかもしれないと思っただけ。
聖書でダビデとヨナタンの友情がポジティブに描かれているから、サタン側は友情を徹底的に破壊したいのだろう。

7、風刺の振り
政治家を風刺する海外のコメディアンも、所詮はサタン側に屈しているから、本質的なところまで言わない。
タダのガス抜き担当でしかない。
裏では媚びている癖に表では媚びていないように見せかける奴らよりも、全力で媚びている方がマシである。
熱いか冷たいかではなく、生ぬるい。

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。

ヨハネの黙示録 3章15節16節 (新共同訳)

8、国民主権
元々、全ての国はサタンの支配下だから、国民主権も大嘘である。

そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ

ルカ福音書 4章6節 新共同訳

全ての国の権力者は、サタンに魂を売って権力を貰っているだけ。
しかもその権力は、好きに使っていいとは言われていない。
権力を与えるけど使っていいとは言ってない。
剣を与えるけど使っていいとは言ってない。

国民主権があると洗脳されて、国の失策や圧制は大衆の自分たちに責任があると騙されている。
俺も時々、国民主権があるかのような書き方はするけど、そこは、間違いだから謝罪する。申し訳ありませんでした。

国民主権があると洗脳されると、国家への帰属意識が強くなって、国と一緒に地獄へ落ちる。

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