久々の母の対面、それからの気づき

先日、母に久しぶりに会った。
我が母こそ、我が家系に統一教会が巣食うことになった根本原因…。
いや、「根本原因」は父にある、と言った方が適当かも知れないが。

2022年11月1日に両親の離婚が決まり、母から「本当はお父さんと離婚したくなかった」という発言を聴いたぼくは、罪悪感と諸々の疲弊もあり、母と頻繁に会うようになっていた。

しかし、弱っている自分に対して、母がとても侵襲的になっているように感じる場面や、母に歩み寄り、向き合っていくために自分がどれほど理論武装する必要があったか、そしてその理論武装の割に「母との関係のコスパが悪い」と実感した瞬間から、母を避けていた。

今年の3月位だったろうか。
神奈川県に移り住む時はまだやり取りや会ったりはしていた。

その後、LINEもブロックしていたのだが、まず恩師に母や我が家の近況に関してツッコまれたのがだいぶ堪えた。「侵襲的に感じることがあるのは、むしろ、やそらさん自身の問題でしょ」は特に刺さった。

兄二人と3人で会う機会が先月あったが、その際も、福岡に発つ前に母に挨拶した方がいいかね~?と話題に上げようとしたが、結局、話題にできず。

7月に入り、近況や関東を発つ前の挨拶を各方面にする中で、やはり、母にも会おうと決めた。カウンセラーにも「律儀だね~」と驚かれた。

実際に会った日は、自分に微熱があって、抗原検査を買ってもらった。なんだかんだ、体調不良を理由に、うちの最寄り駅まできてもらった。

1時間半はかかるだろうか。

ぼくたちは、インドカレーの店に向かった。
出鼻を挫くようなことを母が言いだした。

やそらとは、東南アジア系のカレーは食べたことあるけど、インドカレーだと全然違うよね。

何を言っているのか訳が分からず、聞いてみると、インディアンカレーとメニューにあって、インディアンがいるのはアメリカだから、インドはアメリカ大陸のほうにあるもんだと思っていたということだった。

ぼくは、めまいがした。
この人は70年近く生きてきて、その程度の知識も教養もないのかと。

自分は絶賛喉を痛めていた。
30年前に産み落とした息子が単身、遠く福岡に発とうと言うのだ。それにあたって、律儀に挨拶をするために呼び出したのだ。母にだって、いろいろとつらつらと話したくなることもあるだろうと思い、なるべく向こうの話を聴いた。

やっぱり、話を聴いていると、たまに、どうしても耳につく言い間違いや彼女の勘違いが散見されていた。イライラする。よっぽど指摘しようかとも思ったが、めんどくさいし、喉痛いしいいや、となる。

言いたいことが出てきても言えない関係…。
苦痛だった。喉はただでさえ痛いのに、喉の奥のほうが苦しくなった。

それでも、ここまで来てもらったんだしと、向こうの話を聴いた。

母は「要約すると、向こうでも元気にやって、幸せな結婚もできるよう祈ってます」というようなことだった。

すかさず、「あなたたちのクソみたいな結婚生活を嫌というほど見てるんだから、もうあんな馬鹿なことを繰り返すような真似はしないよ」と悪態をつく。

一時間半くらい粘っただろうか。
喉は痛いし、のっけからめまいはするし、喉の奥が苦しくなるし、さらに母の話を聴き続けようものなら頭痛もしてきそうだった。

母はそんな自分の空気を感じて、切り上げてくれた。

解散して、しかしぼくはなんとも言えぬ「これじゃない感」に襲われた。

会って話している時も、「なんでこんなに噛み合わないんだろう」と悲しくなっていた。あとで人と話していて気づいたが、母の些細な言い間違いなどを、なんだかんだでほぼこちらで補って理解できてしまうのがまた、うざかったような気がした。結局、長年一緒に生活してきたから、なんとなく、母がしそうな言い間違いがぼくもわかってしまうのだ。

言い間違い自体もイライラするが、それをわかってしまうのが…はぁ。

解散して、4分後位、帰り道の交差点
ぼくは、「これじゃない感」と共に涙目になっていた。泣きそうだった。

これでいいのか?福岡に発つ、もう生きてる間はこれが最期になる可能性だってあるのに?わざわざ最寄り駅まできてもらったのに??

そんな悔恨と共に、ある脳内イメージが湧いてきた。
幼稚園生の頃、幼稚園の帰り道、母の漕ぐ電動自転車の後ろに乗って、母は寄り道に幼稚園の近所の牛舎によくよった。牧草や牛の匂いがした。緑が豊かで、目の前には母の背中あって、牧歌的な風景だった。

自分の原体験は、襖を隔てられた先で展開される面前DVだと思っていた。
しかし、ほとんど同じような頃、そんな牧歌的な体験もぼくはしていた。

平和な時があったんだな~…。
あれから何があった…?いろいろなことが起こり過ぎた。
とっても複雑でめんどくさいことがありすぎた。
だからぼくらの関係もここまでこじれ、もつれた。
あの時みたいに戻りたい気もするけど、もう無理だろうか…?
いや、まあ無理だよな…。いろいろありすぎたもん。

そう思いながら、帰りにイオンで買い物をすると言っていた母に、LINEを送っていた。「いま、10%オフ特典持ってるけど」、母からの返事はすこし遅れて、「残念、もうトートバッグ買っちゃった」だった。

まあ、そうだよな。
最寄り駅まできてもらったのに、これで終わりなんだな、と覚悟もした。

と思ったら、翌日、実家近くの母方の祖父母の墓参りに母もついてきた。
兄(長男)とぼくと母の3人で急遽、行くことになった。

この墓参りは、最近ほぼ毎日のように電話をしている方の影響でやろうと思ったものだった。「お盆に実家に帰省する予定がないなら、先にお墓参りしておいたら?」たしかに!と思った。祖父母の事を完全に失念していた。

墓参りを無事に終え、3人でランチに行った。
そして、ランチの場で前日の母との再会やその後、どう感じていたかなどをすべて兄(長男)に話した。母は横にいたが、たぶんあまり聞いていなかった。けど、それでいいと、とりあえず思えた。思いのたけを、そのような形で語ることができて、かなりすっきりした。

けど最近、電話する相手には「解散後感じたこととか、ちゃんと伝えた方がいいんだろうな~」とか話していた。

それで、結局、いろいろあってLINEを送ることに決めた。

最近、幼稚園の帰りのお母さんの漕ぐ自転車に乗って、牛舎に寄り道していた風景を思い出します。家は大変で、誰も余裕がなかったけれども、そんな中でもああいう牧歌的な平和な時間もあったんだよね。

我々の関係はあれからいろいろあって、当時のようにシンプルではなくなってしまっているけど、いい思い出だなって思います。

母からも返事がきた。

帰宅したら家事が大変で、バタバタ忙しいので、すこしでもやそらとの時間を大切に牛を見て喜んでくれたら嬉しいなと、ほのぼのとしたひとときでした。もうひとつ、やっぱり幼稚園の帰りに幼稚園の近くの公園ですこしの時間遊具で遊んだ時に「ぼくお母さんと一緒に公園で遊べてすごく嬉しいな」と言われた時のことが、今でもあの公園の横の歩道を通るとき、きのうのことのように思い出され、胸が熱くなり、涙が潤みます。

幼稚園からの帰り道、母とつかの間遊べたことをとても喜び、「お母さんと遊べてすごく嬉しい」と言っていた少年も、15年後には、楽しいことがあると死にたくなるようなメンタリティになってしまっていた。

本当にいろんなことがあった。

しかし、ぼくは嬉しかった。
5歳頃のぼくは、まっすぐに自分の感情を他者に伝えることのできる人間だったようだ。それから長年、それができなくて苦労したような気がする。

しかし、25年を経て、5歳の頃のように自分の気持ちを人に伝えることができるようになったように感じる。

いろいろあって、人と過ごす時間を大事にしようと思うようになった。
今週の金曜日は、母の家に泊まろうと考えている。

この間とは違って、もうすこしマシなコミュニケーションができるのではないかと期待を抱いている自分がいる。

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