人と関係するということ、人に影響を与えてしまうということ

来週の今頃は福岡に向かう飛行機の中。
あんまり実感がないのも事実だが、とは言え、関東を発つ日は刻一刻と現に近づいてきている。

FBの投稿をみて、福岡行くのか⁉︎それなら行く前に一度会うぞ!と言ってくれる人もいた。

挨拶まわりをしていると、「自分の人生において大切なことを教えてくれた人が、気軽に会える距離からいなくなってしまうのは寂しい」と言われたり、「俺はなんだかんだ八空をリスペクトしてるよ。高校時代、八空と会ってなかったらいまの自分はないだろうなって思うもん。福岡行きは急で寂しくなるけど、もう帰って来んなよ笑」なんて声をかけて来る人もいた。

ぼくは…、ぼくは何もしていない。
ただ、必死にいつも、「自分自身を生きよう」ともがいていただけだと思う。そんなぼくに、こんなタイミングでそんな言葉をかけてくれる人たちが現われるものだから、正直動揺している。そうした言葉や想いをどう受け止めればいいのだろう。

人はただ生きて、ただ他者と相互作用なり、関係を持っているだけでも、人に影響を与えてしまうことがあるらしい。

そんな事実を前に、最近のぼくはただただ呆然としている。

漠然と、今までの自分は「してもらう側」だと思っていた。けど30歳からは、自分も「する側」になるんだと思っていた。

どうやらそれは違った。影響を受けるばかりではなく、気付かぬ間に、既にぼく自身は他者に影響を与える側にもなっていたのだ。

頭では、「人と関わるってそういうことだよ」とわかる。

わかるんだけど、そんな現実に圧倒される。

ぼくは利己的な人間だと自認している。
いつか、野球のイチロー選手が「自分の記録ばかりでチームのことを考えていない」とMLBで批判された時期があった。それに対して、世界の王こと王貞治監督がコメントした言葉をよく覚えている。「それでいいんだ。他人のためと言っている人間は最後、一番大事なところで言い訳をする」。二人の生き方や姿勢から、ぼくは「利己的な目標の追求は、逆説的に利他的な行為になり得る」というようなエッセンスを学んだ。

「利己」と「利他」はどこかの地点で融解する。

しかし、最近の身近な他者からのフィードバックは、「利己的な目標の追求は、逆説的に利他的な行為になり得る」という、「自分なりの論理的理解」に落とし込んでよいものだろうか…?

直観的に、ぼくにはそれが「明晰さの罠」のように思われてならない。そのような「一面的な理解」は、その現象についてまわる他のもっと大切な要素を捨象してしまう気がしてならない。

ぼくは、それはいやだ。

戦国武将の山中幸盛(=鹿之助)が、「願わくば我に七難八苦を与えたまへ」と言ったのはまあまあ有名だと思う。これを文字ろうと思ったけど、いまの自分の気分にはもっとしっくり来るものがあるような気がする。

AAの祈りの言葉のワンフレーズに、「私たちに変えられないものを受け入れる心の平穏を与えて下さい。変えることのできるものを変える勇気を与えて下さい。そして、変えることのできるものとできないものを見分ける賢さを与えて下さい」というのがある。

これを参考に今のぼくの気分を語らせてもらうなら、「ぼくが他者との関係を通して、他者に与えてしまった影響を受け入れる心の平穏を/他者に影響を与えてしまうことを恐れぬ勇気を与えて下さい。そして、ぼくが他者に影響を与える存在となっていくうえで必要な賢さを与えて下さい」とでもなるだろうか。

正直、関東を離れると決めてよかった。
そんな機会でもないと聞き出せなかったであろう、みんなの気持ちや想いに触れることができた。ぼくは馬鹿なので、ひとり職場や研究で孤立感を深めていたので、まわりのそんな気持ちなどちっとも知らなかった。

けど、面と向かって「寂しくなるな」とか「寂しくなりますね」なんて言われてしまうと、やっぱりぼくも寂しいや。

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