とは言え、障害者運動に出会って、ぼく自身が“救われた”と実感した瞬間に関するお話

以下、4月中旬、自立生活運動から離れて、福岡に旅立とうと概ね決めていた頃の文章。

津久井湖にて

サイクリングで津久井湖に行ってきた。

最近会った人と永山則夫の話になった。

『まなざしの地獄』で永山則夫のことは知っていた。彼の手記から引用されていた言葉で、とても印象に残っているものがある。

自分は死刑囚として収監された牢獄の中で、初めて人間になれた。

だいたいこんな風な言葉だったと思う。

20歳頃に障害学や障害者運動と出会い、23歳頃から運動の近くで働くようになり、「半分当事者御用達の社宅」を借り、自立生活運動に依存というか寄生するような生き方を「社会的養護だ!」と言い張り、当時やっとの思いで「自分の空間」を確保し、そこにおいていろんな問題を言葉にして整理し、自分の痛みに振り回されないように、セルフネグレクトから脱却できるようになっていき、人間になれたという実感を抱いていた自分にとって、獄中でようやく人間になれたと手記に記すことしかできなかった永山則夫の境遇は、他人事にはとても思えなかった。

銃と言えば、10歳前後の頃、たびたび思い浮かべていた光景がある。自分は学校の教室にいて、マシンガンなどを撃ちまくって、周囲の生徒や教員もろとも全員ぶっぱしてから、最後に自分ののど元か頭に銃を向けて、引き金を引く。

東条英機が敗戦直後に自決に失敗した話とか、1984の青豆の挙動から、より確実に死ねる方法を後から知っていったと思うから、たぶん当時は頭に銃口をってイメージだったとは思う。

そのイメージを脳内再生すると、いろんな鬱憤や鬱屈した感情が少しだけ晴れたり紛れたりしたような気がした。何より最後には、周囲のすべてをぶっ壊して自分も死ぬことで“救われる”。そんな原風景。そういえばあんまり人とこの妄想について、ちゃんと話したことがない。

山上被告の事件が起きてから、兄に「お前が山上にならなくてよかったよ」と面と向かって言われる機会があった。ぼくはそんな兄を前に、平然と、「何を言ってるんですか、ぼくだったらちゃんと現役の時を狙ってやり遂げますよ(にっこり)」と言い返していた。

そんなことを平然と言い返す自分が、冷静にふりかえると自分自身でも訳がわからなくなる。

きっとだから、こういう攻撃性とかの自覚があるから、宮台真司襲撃事件の際、「実行犯俺じゃねえよな…?」という疑念を拭いきれなかったのかもしれないな、と今は思う。

アメリカのような銃社会に生まれなくて本当によかった。

もしかしたら植松は山上は永山は、自分だったかもしれない。けど今となっては、そんな恐怖心はない。ぼくはきっと障害者運動と出会って“救われた”。

そんなことを考えながら、暑い位の日差しの下、津久井湖周辺の公園のベンチに寝そべって過ごした。春の陽気、青々とした緑、咲き誇る花々、とても心地よかった。

机も備え付けのベンチに座りなおし、持ってきていた愛読書の『キッチン』をパラパラとめくって読んでみた。

すると、雄一がみかげに語りかけていた。

「君はちゃんと元気に、本当の元気を取り戻せばたとえばぼくらが止めたって、出ていける人だって知ってる。けど君、今はムリだろう。ムリっていうことを伝えてやる身寄りがいないから、ぼくが代わりに見てたんだ…利用してくれよ。あせるな」

みかげと田辺家の関係は、ぼくと障害者運動との関係に似ているかもしれない。

天涯孤独の身になって、犬のように田辺家に拾われたみかげは、「今、私に必要なのはあの田辺家の妙な明るさ、安らぎ」だとしている。しかしその明るさや安らぎは、田辺家に内在する「不健康きわまりない設定」に大きくよるものだった。

「半分当事者認定を受けないと入れない社宅」に住まわせてもらっていた頃、ぼくはよく障害者運動の先達に「で、お前はどうするの?」と突きつけられるような感覚になっていた。

今ならちゃんと、一応胸を張って応答できる。
自分の闘いが終わりました。あなたたちと違って、制度変革するような激しいものじゃなかったかもしれないし、小規模な「私的領域」における闘いだったかもしれないけど、自分なりにやり遂げました。自分の闘いを完遂させる上で、障害者運動の近くに身を寄せる必要がありました。いまは30年に及ぶ闘いが終わったという実感のために疲れ切っています。もう少しだけ、本当の元気を取り戻すまで身を寄せさせてください。

津久井湖を臨みながら読んだ雄一のセリフを通して、障害者運動の先達にもう少し利用してくれていいよと言われたような心地がした。

「自立生活運動からの自立」は、ぼくにとって長年のテーマだった。どんな形があり得るか模索してきたけど、いまようやく、少しずつ具体的なイメージが固まってきているような気がする。

人に迷惑をかけすぎたり犯罪でなければ、この世の中で自分が好き勝手自由に何をしてもいいんだな〜と津久井湖でひなたぼっこ中に実感した。そんなこと、考えたことも思ったこともなかったかもしれない。

人間、行こうと思えばどこにだって行ける。

人って案外、自由だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?