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田園調布

 二十世紀に入ると英人ハワード「明日のルーラルシティ」というちょを表します。
 その著の中身は、要するに農耕地の中に町を造るという内容でした。
 これに飛びついたのがあの渋沢栄一(明治財界のボス)のセガレでした。

 大正七年に親父を代表にして田園都市株式会社を創立、いまの田園調布三丁目を造成して、上下水道完備の高級住宅地として一区画百坪として売り出しました。
 この辺りは江戸時代から風景良し気候良しで大店おおだなの別荘地でした。
 ちなみに、根岸は妾の住むところ、向島は大店の病弱な娘の保養地と相場は決まっておりました。

 昭和五年には販売中であったらしく、岡本一平の描いた宣伝用ポスターが残っております。中産階級の住宅地であることをそのポスターは強調しております。

 東急目蒲線田園調布駅から放射状と同心円を組み合わせた道路と公孫樹並木が邸内から聳え立つ庭木と相俟って、その景観は文句の付けようがありません。
 
 麹町や麻布には、下の下の住宅街が紛れ込んでいますが、此処にはそれがありません。すべて上の上ですが特上ではないのです。
 しかし線路の反対側はいただけません。軽井沢人が旧沓掛辺りを「嘘軽」と云うように、此処は「嘘田」かもしれません。

 以前、ファウンダーの渋沢家が相続税を払えないので田園調布から立ち退くという新聞報道がありました。その後、どうなったかは知りません。

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