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江戸をぶらつこう (江戸)

 

 数ある日本の歴史書のなかで、『日本の近世とは徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いた慶長八年(一六〇三)から十五代将軍慶喜の大政奉還によって王政復古が行われた慶応三年(一八六七)に至る二六五年間』と【日本概説】に記されております。
 ここでは、江戸時代の地名場所や出来事などを、小生の主観を交えて述べさせていきたいと思います。
 文中で解釈の違いや多少の記憶違いについてはお許し願いたい。


( 江 戸 )

 江戸は室町時代に扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の武将、太田道潅の江戸築城によって開けた処ですが、地名の由来は豪族の江戸うじの拠であったのか明確ではありません。
 江戸川と小石川の合流するところを平河といい、江の門と詠んだのが詰まって江戸となったという説もあります。

 太田道潅の江戸築城の頃は、東国の要衝として栄えましたが、道潅が上杉氏に殺され、上杉氏も廃れると江戸は一旦寂れていきます。
 道潅については戦前の児童なら皆知っていた故事を紹介します。
 道潅が野駆けの折り雨に降られて民家に立寄って雨具の借用を申し出ると、その賎家しずがやの娘が黙って山吹の花を差し出しました。
 不可解な面持ちで帰途につきますが、後に「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」という歌があるのを知り、己の無学さを恥じて歌道に身を入れ、後に一流の歌人になったという話しです。「実の」はみのに懸けています。
「わがいおは松原つづき海近く不尽ふじのたかねを軒端のきはにぞ見る」は彼(道潅)の代表作と言われています。

 江戸は家康・秀忠の入府に依って、再び活気を呈してまいりますが、彼等は三河の町人を引き連れてきました。
 商人を日本橋、職人を神田に住まわせたのです。
 彼等が後の江戸っ子の本流となるのであります。
 


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