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私の体験した強迫性障害、強迫性神経症とその特徴。

こんにちは、留年高校生のアオイです。

私は比較的軽度ですが、強迫的観念に捉われる強迫性神経症を患ったことがあり、今でも症状は少し残っています。

この記事では私が体験した強迫性神経症、または強迫的な思考についてお話しし、その根底にはどんな病根があったのかということについてできる限り深掘りしてみたいと思います。

よろしくお願いいたします。

①私の体験した強迫的な思考について

まず最初に私が体験した強迫的な神経症についてですが、一言で言うと「こちらを選ぶか、あちらを選ぶか、どちらかを選ばなければお前は死ぬ」と言った、強迫的な思考に襲われました。

病状が出ていたのは小学生の頃からです。

強迫的な思考、どちらかを選ばなければお前は死ぬ、というような強い不安感が特徴で、それ故に意思決定がうまくできない場面がありました。

あるいは自分が望んでいる望みが分かりませんでした。

17歳で躁鬱を罹患してしまうのですが、その時にこの強迫的な思考も顕著に強くなり、ひどい時は「私の選択によってこの世界の不幸が実現してしまうのではないか」というような不安感に襲われました。

しかし私は実際に強迫性障害の方を病院で見たのですが、私に現れているのは強迫的な思考であって、手を洗い続ける、あるいは鍵を閉めたかを確認し続ける、といった症状は出ていませんでした。

これで強迫性障害と言っていいのかは分かりませんが、ここでは強迫的な思考に捉われている、ということで強迫的神経症と定義づけておきます。

特徴としては強い不安感が特徴で、「あちらか、こちらか」というような二者択一を迫ってくるのがその思考の特徴でした。

この決断によって、不幸が訪れるかもしれない。予期せぬ不幸が訪れるかもしれない。そんな気持ちが一瞬頭をかすめるので、必然的に選択は遅くなります。

ひどい時には思考自体ができなくなったこともありました。(それは躁鬱の要因もあったのですが)

このように、何かを選択する際、「はたして私の決断が信じられるだろうか」あるいは「この決断によって不幸が訪れるのではないか」という侵入思考が特徴でした。

②確かなのは自己信頼感の欠如

その病理の根底には、"自分を信じることができない"という病因があった気がします。

これはあくまで私の主観ですが、どちらを選べばいのかわからない、つまりは二者択一を迫られた時にこれだと選べる自信がない、自分がない。というのがこの病気が起きているときの現象でした。

まずそもそも自身を信じられないから、決断をすることができない、決断をすることができないので二者択一の選択を迫られたときに、強烈な不安に襲われる、というのが私の思考のある種の流れだったような気がします。

このように根底には、「自分を信じることができない」という不信感があって、それこそが"選択不可"を起こしてる要因なのではないか、と考えられるのです。

他にも別の言葉で表現してみます。

③物事の因果律が分からない、"世間"というものが分からない

別の言い方で言いますと、物事の因果律が分からないということです。

少し怪しい言い方になってしまいましたが、言い換えますと、ある行動が引き起こす結果についての程度が分からないと言いますか、これをしたらこうなるよね、という"実相"が分からないということです。

実相(じっそう)という言葉を使いましたが、もう少し分かりやすく例え話で説明します。

ある少年が転んで怪我をしてしまったとします。その時にひざから出血したのですが、その子は血が出る膝を見てとても怖くなって、泣き叫びました。そこに通りすがりのおじさんが駆けつけて、大丈夫かい痛かったね、と言って手当てをしました。

その時に「これはかすり傷だからすぐ治るよ」と言って、そのおじさんは傷をさすってくれました。男の子は安心して、さっきの怖い思いを忘れてしまっていました。

このようなお話があったとします。この時、男の子ははじめて怪我というものを知り、それが致命傷には至らないということを学びました。

怪我は痛い、ということを学んだけれども、膝のかすり傷で死ぬことはないのだ、ということも学んだのです。

このときの話の、"おじさんが現れなかった場合"、と考えていただくと分かりやすいかもしれません。

もしこの男の子が怪我をしたまま、誰にも駆けつけてもらえず、公園に1人ぼっちだったとしたら、男の子は1人で泣き叫ぶしかなかったでしょう。

そしてこのまま死んでしまうのではないか、という恐怖に支配されることになったでしょう。

つまりは"それでは死なない"ということを知ることができなかったのです。

私は17歳の時にこの強迫性思考がひどくなりましたが、歳を重ねるにつれて、またあるいは少しではありますが社会的な経験を積むにつれて、その症状は治ってきました。

そしてそれはなぜかというと、だいたいの物事の因果律がわかるようになったからです。つまりは、膝の怪我だったら膝の怪我、捻挫なら捻挫、筋違いなら筋違いと、その程度によって病状を理解できるようになったことがあります。

しかし強迫的な思考に捉われている時は、"膝の怪我が死亡"、"指の出血が重大事故"というような、現象に対してのアンバランスな認識が起きていたのではないかと予想されるのです。

私は目次で世間(せけん)という言い方をしましたが、それは礼儀やマナーという観点での世間ではなく(もちろん礼儀やマナーも大切ですが)、だいたいこういう怪我をしたらこれくらいの傷で済むという因果律、そのことを世間と言っています。

そのような因果律、世間がなかったことによって、強迫的(何者かに強迫されるような思考)が起きたのではないかと考えられるのです。

このような経験から、因果律が分からない・自己信頼感がない、ということが根底に存在することがわかってきました。

と、ここまでが私のわかる範囲での病状です。

強迫的思考が侵入してくるとき、私の場合は自身を信じられないという不安感がありました。私が言えるのはただただこの病理についてのみなのですが、同じような病気を経験したことがある方、あるいはそれが寛解されて治癒されている方、その方達に何かの参考になればありがたいです。

そして私はこの記事の結論ですが、自己信頼感と社会に対しての信頼感が治癒の上では大切ではないかと考えています。

つまりは社会経験ですね。

しかしあまりにも病気がひどかったり、あまりにも社交不安が強いと働けない可能性があります。この点は難しい気がするのですが、"望ましい形で順調に社会経験を積む期間"がその人に保証されれば、強迫的思考は薄らいでいくのではないか、という考察をしています。

それをもっと究極的に言えば、「他者も悪いことを考えている」ということが分かれば、この病気は完治するのではないか、とさえ思います。

つまりは人の情緒に対する理解ですね。

社会がない、駆けつけてくれる他者もいない、そうなると鏡に映るのは自分しか映りません。

いくら自分で自分を見つめていても、自分がどんな容姿をしていて、どんな形状をしていて、あるいはどんな性格をしているのか、鏡を見ているだけでは断定ができません。

そこに他者が現れることによって、はじめて客観的な自身の性格を断定できます。この社会経験がない時にこの強迫思考は起こりやすいのではないか、という考察です。

そして先ほど"他者が悪いことを考えている"と表現をしましたが、これが先ほど私が言った「世間」です。他者の思考の因果律を知るということです。

「他者が悪いことを考えていることを確認して、精神的な病が治るとはどういうことなのだろう」と思われるかもしれませんが、私もよく疑問に思いましたが、

まずそもそも不快な感情、非難、怒り、悲しみなど、ネガティブな感情を持つのが人間です。

時には愚痴をこぼすこともあれば、怒り、悔しがり、時には涙することもあるでしょう。

しかし強迫的な思考が現れていた時点での私は、そのような自身の気持ちを肯定するという経験が圧倒的に欠落していました。

ここも自己信頼感がないということに繋がりますね。

つまりは、自分を信じれない、他者がいない、誰も指摘してくれない、信じれる人もいない、だから自分を信頼できない、世間がない、世界というものが分からない、究極的には人の気持ちが分からない、この圧倒的欠落が強迫性思考を引き起こしていた、と私の場合では言えます。あくまで私の場合ですが。

ですので繰返しになりますが、社会経験つまりは他者に受容されこちらも受容し合うような経験をその人が積むことができれば、心の自由が広がり、自由が広がるということは、強迫的ではなくなるということを意味します。

これは単なる私の分析に過ぎませんが、どこかこの不安感を抱えていらっしゃる患者さんも多いのではないでしょうか。

以上、私が経験した強迫性神経症と強迫的思考についての特徴でした。

一患者の意見ですが、何がしかの参考になったのならありがたく思います。

ここまで見てくださってありがとうございました。

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