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体験と根の変化と連鎖

昨日ちょうどイベントでお手伝いのほうをさせてもらってそこで思ったこととか残しておきたいなと今感じていてこの文を書いている。
大人のぬりえで色鉛筆から自分の色を引き出す、表現するということをコンセプトにだったが、主催者の過去働かせていただいた職場でつながった人や学校などで出会ってずっと仲良い同級生、知り合いに呼ばれて一緒にやってきた人などいろんな人たちが参加していた。
このテキストを書こうと思ったのは、現在「千のプラトー」を読み途中で生成変化というワード、その意味がそのイベントにての体験に共鳴して強く突き動かされたように感じ、書いている。
まず前提に生成変化というものに関しての意味の引用を出しておくと、

「人が狼を見て、おれは狼になる、なりたいと念じ、その結果として狼に分身する。星を見て、自ら星になったような気になる。花を見て花になる。そのような心理的動きの中に、錯覚にとどまらない本質的なものがあり、それをフランス語で「devenir(成る)」(日本語訳は生成変化)という概念とした。」

wikipedia 

このような意味になっている。僕はこのイベントによって生成変化に関しての意味を体験したように感じた。
それはこの枠の中でどんな絵を作れるかというものを感覚的にゆだねて書いていったときにその時こうしたいから、こういう気分だからこうしたい。のようにその時だからこそ表現できるもの、そして塗り絵によって、何かのモノを書くというよりは決められたシルエットをどう色づけるかにフォーカスができた。

それによってなにかが作られるわけではないが、それによっていま~したいというものが達成されることまたはすでに達成されていることに気づいた。
例えば自分が何かを表現したいが、何を表現すればよいか分からないとしよう。
その中で人は何かの型どこかに移動するはずだ。その中で自分なりの表現をしようと学ぶ。
そこにおいてイベントにおいて型というものは作られたために表現可能になっていた。
その点ですでに達成されている。そしてその塗り絵を塗り切ることで完成されることが分かる。
これはその時の雰囲気や人、何をするかによっても変化していくのだろう。
この点でそのときというものはもうやってこないということになる。時制でいうとそれは現在から過去に変化するということ。
そして過去は変化するのか?それは分からない。
比較して現在というものはその瞬間であり、変化することを願う瞬間も、変化していく瞬間も、変化し終わった瞬間も変化である。
その中では過去が変化するというよりは、現在における、生成変化によって過去が変化するのだろう。
それはその変化による変化であるのだろう。ということはその瞬間における変化=生成変化によって過去のことに関しても変化するのだ。
昨日イベントのWSを体験した直後は、すごく満足していた。それは友人もそういっていた。
僕はさっき本を読んでいた。本の中で「生成変化」というワードに触発されて、過去のWSを思い出す。その中で強い衝動と共に今センテンスを書いている。
どこからだろう。今センテンスを書いているということから過去の振り返りをしているさっきから、現在(センテンスを書いている)なかで生成変化とともに過去の情報や体験が触発されてセンテンスが進む。
これも生成変化によって過去のモノ、体験に関してのパースペクティブが変化していたのだろう。
このように今変化し終わった。と今感じた。

僕自身は表現というものも変化していくものだろうと思う。
これはパーソンズの「表現expresion/表出explosion」の意味の比較によって理解するの分かりやすい。
前者は何かの型に合わせて自分なりにしたい表現を組み合わせる。後者は内発的な行為に基づいて突き動かされながら思考せずインスピレーションに沿ってその時書いていく。
このような意味では表出explosionに近いのだろう。

すごく疑問に思っていたことがある。それはいま人と話すことを楽しみたいんだよな?ということです。
何かの学問に結び付けて専門ワードを巧みに使うことさらなる相対的な会話の展開をして前に進むような錯覚をえるのか。
僕は今楽しむことを大事にしたい分、そこまで会話の内容にテーマに沿って話すなど、固執しないなと感じている。

だから正直に言うがあまり人と話すときに思考することがなくなった。
それは良いことでもあり、悪い側面持つだろう。
それは例えば社会、所謂サービスによって対価としてお金を得るというシステムの中でベネフィットの提示から承認してそのやり取りを契約するというシステムだ。その中では因果関係いわゆる原因と結果の可視化が一つの基準になったりする。
ただその中では人間特有の営みは発生しづらい形になってしまう。
僕はその営みを重視している。それはその時だから見えるし、過去、未来になってしまえば見えなくなってしまう。

先ほどの現在においての生成変化によって過去の体験、出来事に関してのパースペクティブの変化することに関してを交えて考えてみる。
人それぞれが生成変化していく中では因果関係が存在するかを考えてみてほしい。
生成変化の視点でみるとその「現在」というものは何でも変化する。
引用に見たようにそうなりたいとひとは創造し、そう変化するために何かを考え、いつの間にか変化していく。
その創造に関してもその瞬間だからそうなりたいと思うのだろう。
そう思うにその変化もその時だから思えるし、「原因」と「結果」を並列して表現しているがそれは生成変化しないことを前提にその表現している。
昨日のイベントによってそういうものが今見えている。
自己も変化するし、他者も変化する。主観でも客観でもなく俯瞰的にみて両者ともに変化していく。
その中で僕らは表現ではなく表出するものを求めている。「現在」に導かれている。
この辺で終わりますね。


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