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日常と非日常、思い出と感情

こんにちは。春ももう訪れすっかり満開に咲くような季節なってきました。
僕は去年ちょうど浪人していた時期が終わり、大学にいける。いろんな人と話したい。そんなことを思っていた季節でした。


自己紹介

20歳の長野県生まれ。
国際系の学部に所属する大学二年生です。
普段は、100BANCHという会社でPS(運営スタッフ)として働かせていただいたり、Zeronityという人材育成組織で経営系の実践的スキルを学びながらいろんなイベントに行ったり、人づてに何かのパーティーに参加させてもらったりして生活しています。
他にもBeauでの学生パートナーとして活動したり、ゆとりごっち祭のバレンタインイベントに携わらせてもらったりしていました。
小学生の頃ですが、花火大会での屋台のお手伝いをさせてもらった経験もあったりします(笑)
過去に自分で企画・運営をしたディスカッションイベントや読書会そして、トレイルランという山を走る、というイベントをある友達としました。
興味分野的には哲学・心理学・文化人類学です。包括的な”人間”というものや”繋がり”というものについてよく考えていたりします。
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日常にあるものを非日常にする

このワードは僕の”現在”にある自己理念です。
これは認識の上で日常にあるもの(ことも含みます)を仮体験をしたり、感受してもらうということです。
タイトルにもあった日常と非日常という部分を自分なりの解釈で作ったものでもあります。
皆さんの中で端的に日常と非日常に関してどんなイメージが湧くでしょうか?
日常でいえば、ご飯を食べたり、睡眠であったり、出勤することであったり。非日常でいえば、海外に行ったり、温泉に行ったり、旅に出たりする感じですかね。
ここでいうと所謂毎日繰り返されるもの=日常。そして、一時的に堪能できるもの=非日常分けれるかなと思います。
ここから話を進めていきますが、僕の中では実際何かするときに日常にあるものって社会的価値がないと思うんです。なぜかというとご飯や睡眠、出勤=労働などってその人にとってユニークなものでしかないし。それぞれ人間にクロノタイプ(体内時計)があるようにそのすべてがパーソナライズされているものですよね。
つまり、社会的価値というものは僕自身はみんなにとって共通の需要(ニーズ)がないと上がらないものであると感じるのです。
”言葉”そのものが分かりやすいです。
みんな物事をなにかするときに”言葉”を用いりますよね。
つまり物事をするためのニーズとして言葉が必須であるんです。
この点で物事(思考している、またはされている)ものに関してはこのニーズ=社会的価値がない限り伝わらないんです。
その点を知ったうえで、日常を認識すること自体が非日常であると感じているのです。言語化する必要があるということは必ず目的、やりたい物事があります。
僕はその点では目的を意図しないことは日常にあたるのではと思います。
故に言いたいことは、認識、または再認識してもらったうえでこの点をより感じてもらう、体験してもらうことが”日常にあるものを非日常にする”ということなんです。

思い出と感情-自分のしたいこと

  • 学生を中心としたPJ(プロジェクト)を諏訪中心につくる

  • ”スワビト”という諏訪の人類学をつくる

  • 街や村を紹介するメディアをつくる(街づくりや地域活性関連での事業を紹介×観光)

  • 自分で表現するイベント型の展示会を作る(自分は平面表現ではなく立体表出といいたいです)

ここにおいては内的動機も含んでお伝えします。
思い出感情。この二つは多くの人々にとって必要なものだと思うんです。
なんでかというと、ある出来事を見たときに自分の原体験であること。そして説明のできない非合理的な合理としての感情であり、力の源でもあると思うんです。
例えば、昔いじめられて記憶があってその体験から学校支援事業を作りました。とかその関連で過去の体験からなにから力が沸き上がって行動できる。
それは言語化できないけどするのであれば目的達成のための最大化された行動動機だと思うんです。
この四つの項目は全部僕の過去の体験から今年模索した中で見つけたプロジェクトです。
そして思い出すことによって過去の体験を見つめてまた定義することができる。その中で引き継がれたり、周りから面白いなぁとか思われるきっかけになったりするのです。
その人にとって思い出=感情を含めた力であり、そしてもっとも説明として根拠のある内容でユニークなもんだと思うのです。
僕自身は”日常にあるもの、普遍的なものに関して大切にできるように”というvisionを設定していますが、これはその人にとってのユニークなものをユニークなものとして社会的価値にできたときにはじめてそれぞれが尊厳を保ちそしてそれぞれがそれぞれに持つ共通項として持てるもっとも抽象化
されそしてより多くの人をlinkするものにつながるな
と感じているという前提があるのです。
なので日常にあるものを仮体験のような形でイベントや事業その他諸々を作ることをしていけれるようにもしたいですね。
そしてあなたがどうするかもあなたが決断すべきであるし、ぼくはその気持ちを僕なりに受け止めたいと思う。

終わりに

ぼくは過去に完璧主義者なんじゃないか?と言われたことがあります。答えは違います。そうなれないと感じながら、そうなりたいと感じているだけです。
前を踏めば踏むほど、先は見えるが、後ろを忘れてしまう。(これは人間の忘却機能)
そんなシーソーのような人生の中で、生きたり・生きなかったりするそれが人間らしいなと感じながらいろんな活動をやっていきたいなと感じています!
もしいいなと思ったら、連絡ください。

⇩自分なりの表現です。




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