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『小説ですわよ』第9話

※↑の続きです。

 舞は顔を洗い、歯を磨き、パジャマのままリビングに向かう。
 テレビ画面では『プラプラ沈々喪中下車の旅』という番組が流れている。身内に不幸のあった芸能人が、都心部の電車に乗って、気になる駅で降りてその町に住む人妻をナンパするという内容だ。土曜の朝ということを抜きにしてもイカれている。少なくとも舞が物心ついたときから放送されているが、人気の理由はよくわからない。
 そんな番組を母がひとりでソファでくつろぎながら見ていた。妹はデートに出かけているのだろう。昨日、トイレ前で鉢合わせたとき、そんなことを話した覚えがある。

 舞が来ても、母は気づかずテレビにくぎ付けだ。ガラステーブルの上には、緑色の液体が注がれたグラスが置いてある。いつもなら、わずかな足音だけで舞が起きてきたと察知するのだが。
「おはよ」
「あら。ああ……おはよう」
れいはデート?」
「うん」
 ようやく振り返った母は、頬がやつれ、ぼんやりした目つきだった。しかし変わらず優しい声で、舞に話しかけてくる。
「今日、バイトはお休みなんだっけ」
「バイト……」
 舞はクソゲーム会社を辞めてから数か月ほどニートをしており、貯金が尽きかけたので、今週バイトを探し始めたところだった。母への借金もあるので、どこでもいいから早くバイトを決めたかった。
(あれ? でも今週なにしてたんだっけ)
 記憶がすっぽり抜け落ちている。いくつか面接に行ったが、落とされたか返事がないかで、まだ働けていないのは理解している。だが具体的に何があったか、まったく思い出せない。
 舞はこれまで、なんとなく流されるまま生きてきた。しかし今週何をしたか覚えてないほど、ぼんやりしていたとは。そんな情けない自分を見かねて、母は「バイトは休みか?」と嫌味を言ったのだろうか。しかし母はそういう性格ではない。むしろ他人に悪態をつくことを、ひどく嫌う。舞が誰かを悪く言おうものなら、強烈なビンタを食らわせてくるほどだ。
「ごめん。まだバイト決まってなくて」
「そうだったの?」
 母は首をかしげたが、すぐに微笑む。
「いい仕事、きっと見つかるわ」
「本当にごめん。立て替えてもらったお金、すぐに返せるようにする」
「急がなくていいのよ。舞ちゃんが一生懸命なのは、お母さんよく知ってる。神様だって見ていてくれてる」
 この言い回しが舞は昔から嫌いだったが、今はありがたかった。しかし心から安心できなかった。なにか、なにかが、欠けている。胸に得体の知れない穴が開いている。

 母はテーブルに置かれたグラスを手に取り、緑色の液体を飲み干す。
「はぁ……おいしい」
「青汁?」
「うん。神汁騎士の。最初は苦かったけど、しばらく続けてたら甘く感じられるようになったの。身体の調子もよくなったし、体重も減ったわ」
「へぇ」
 その割に母の見た目は不健康そうだが、青汁なら害になるようなものは入っていないのだろう。痩せたから、そう見えるだけなのかもしれない。もしそうでなかったら……神汁騎士のところへ殴りこみに行ってやろう。
 それから舞は母と会話らしい会話をせず『プラプラ沈々喪中下車の旅』をぼーっと見ていた。今週の旅人に選ばれた俳優は、3人の人妻をナンパしていた。そしてエンドクレジットが流れ、次回予告の映像に切り替わる。

「さて来週は……人気沸騰! 神汁騎士こと神沼 蓮さんと行く、御下品倒錯線の旅をお届けいたしますよぉ~!」

 顔面にローションでも塗ったかのようなテカテカ笑顔が映し出された。舞はキッチンの戸棚から不意に“G”が現れたときのような、拒絶感と恐怖に襲われる。だが母の機嫌を損ねるので、F言葉が飛び出す一歩前で踏みとどまった。
「やった! 神汁騎士だって!」
「はは、よかったね」
「舞ちゃん、来週録画しといてもらえる?」
「いいけど、放送見るんでしょ?」
「何度も見たいの」
「しょうがないなあ、わかった」
 次の番組までのCMが流れ、母は神汁を飲んだグラスを流しですすいだ。

 それから母は午後からの仕事に出かけた。
 残された舞は、炊飯器に残った白飯と、卵、ベーコン……はないのでウインナーでチャーハンを作った。土曜のお昼、父がよく作ってくれたのが昨日のことのように思い出される――
「いいか、舞。フライパンはあらかじめチンチンに熱くしておくんだ。チンチンだぞ」
「うん、チンチン!」
「あなた、そんな下品な言葉はやめて! 舞も麗も女の子なのよ!」
「ごめんごめん。とにかく、お父さんがいなくなってもチャーハンを作れるようになろうな」
「お父さん、いなくなっちゃうの?」
「いなくならないさ。だけど、いつも土曜の昼にいるとは限らないだろう? 舞はお姉ちゃんだから、麗の分まで作って、お腹いっぱいにしてやってくれ」
「うん、チャーハン作る!」
「よし、約束だ! ゆ~びきりげんまん、嘘つ~いたらフグの珍棒飲~ます♪」
「指きった♪」
「あなた、珍棒ってなによ!」
 それから数年後、本当に父はいなくなった。舞は約束に従い、父なき土曜の午後にチャーハンを作ろうとしたが、母に止められた。以来、チャーハンが水原家の食卓に並ぶことはなかった。実はこうして母の居ぬ間に作っているわけだが……。
 チャーハンは塩コショウが効いていて美味かった。油はラードをケチらず使っているので香ばしく、米はパラパラとしっとりの中間の感触だった。家でこれが作れるなら上等だろう。
 しかし過ぎ去った顔を取り戻せるわけではない。父を陥れたヤクザが憎い。チャーハンを噛みしめるたび、なぜかウナギが脳裏に浮かぶ。それも人間より遥かに強大なウナギだ。舞の住むS県が隠れたウナギ料理の名所だからか? よくわからないまま食べ終え、洗い物をすませた。

 午後はまず、ノートPCを開いてメールをチェックした。求人サイトを経由したバイト希望先からの連絡はない。土日だから仕方ないか。
 すぐにパソコンを閉じ、ベッドに身を投げる。妹――麗からおススメされていた漫画があることを思い出した。ちょうど、最新話まで無料公開されているサイトがあったので読んでみた。
 なんの取柄もない主人公の少女が異世界へ転生し、そこで王族や貴族、果ては魔王からも求婚されるという恋愛漫画であった。
 成人指定などは特にないが、かなり過激で直接的な性描写がある。それ自体は“使える”ので“スッキリ”させてもらった。しかし話の内容は男に惚れられては肉体関係を持ち、別れてまた他の男と……の繰り返しで退屈だった。
 本当に退屈だ。舞はもっと刺激的で、だけど悲しみを抱いた異世界人の女を知っている。
(えっ、誰だっけ?)
 靄がかかったように記憶がふさがれて、思い出せない。妹におススメされた別の漫画の主人公だったか。

 それから眠気にいざなわれて夕方まで昼寝をし、特になにもすることなくベッドに寝転がっていると、母が仕事から帰ってきた。風呂掃除をしたり、母の料理を手伝ったりして夕食の時間となり、バラエティ番組を流し見しながら食事を終えて風呂に入り、またダラダラとテレビを見ていたら23時。家の電気をすべて落とし、眠りについた。
 麗は帰ってこなかった。彼氏とよろしくやってるのだろう。長女と舞と違い、母は妹を放任主義で育てており、だいぶ甘い。ずるいなと思いつつも、妹が苦しむ姿を見たくないので、これでよかったと思った。
 日曜も同じように過ごした。妹のおススメ漫画を読み終え、夕方に求人サイトからバイト希望先の面接についてメールが届いた。翌日、月曜の夕方16時に面接を受けることになった。
 20時ごろに麗が帰ってきて、家のドアを開けた途端泣きわめいた。彼氏にヤラれるだけヤラれて放り出されたらしい。相手は同じ大学のヤリサーに所属する男だという。母はいつも通り「神はいつでも見ている」としか言わなかった。舞は姉の務めとして、妹の気分を紛らわせようと、おススメされた漫画の感想を話したが「放っておいて!」とグーパンチを食らわされた。

 12月12日。月曜日。7:50。家のゴミは舞が出すことになっている。無職になってからの暗黙のルールだ。それを済ませて、リビングに戻る。すでに母も妹も出かけていた。
 “犬まんま”を食べながら、ダラダラとテレビを見ていると10時を回っていた。前職の始業時間だ。今ごろあのクソ連中は、〆切を破りながら働いているのだろうか。と、立て続けにスマホへ電話がかかってきた。バイトの面接と説明会の連絡だ。午前中に2件の面接、午後に1件の説明会が決まり、出発の支度を始める。

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「今日の1位は……おめでとうございます、しし座のあなた! 失くしていたものが、部屋の隅っこから見つかるかも? ラッキーアイテムは、お蕎麦で~す」
  占い担当:アーミラ・カーヤ
  (朝のニュース番組『死んだほうがましテレビ』の占いコーナーより)
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 1件目の面接は、裏筋駅すぐ近くにある、デパ地下の鮮魚コーナーの売り子だ。やたら語気の強いババアのオーナーが面接担当だった。売り子と聞いていたが、職人が魚を捌くアシスタントなんかもやるらしい。
「うちは厳しいよォ! 職人は『アレをやれ』としか言わない! でもね! 根性がありゃあ『アレ』を聞き分けられるようになるんだよ。気持ちをわかるとか、優しさっていうのは、根性で相手を理解するってこと! 辞めてくヤツが多いけど、そういうのは根性がないってことだね! 厳しく鍛えられなきゃ一人前になれやしないよ!」
 ババアがひと息に、暑苦しく語った。「職人が具体的に指示して、わからないことがあったら聞けば済む話だろ」と反論したくなった。
 そこでババアがいきなり煙草をふかし始め、職人に怒鳴られた。
「匂いが魚に移ったらどうすんだイカレババア! 三枚おろしにすっぞ!」
 ババアもババアで臨戦態勢であり、
「オーナーになんて口きくんだ小僧! 路頭に迷いたくなきゃ黙って魚を捌いてな! お前はマシーンなんだ! できないんなら、自分のチンポ捌いてとっとと失せな!」
 なかなか元気と明るさの過ぎる職場なようだが、舞は前職よりマシだと思った。自分をまともだと思いこんでいる人間こそ一番タチが悪い。関わっていると知らぬ間に瘴気が伝染し、自らの狂気に心が壊れて絶望する。この職場は狂気が表出している分、心構えができる。適応したいのなら、自分もさっさと狂ってしまえばいい。後悔は生まれるかもしれないが絶望に傷つくことはない。
 採用の合否は1週間以内に電話するとのことだった。このバイトはなかなかよさそうだと思いながら、ババアと職人の罵倒合戦を背にして鮮魚コーナーを去った。

 2件目は同じデパートの屋上にある、うどん屋だ。ホールで働くと聞いている。正午が近づき、客が増え始める中、隅っこの席で面接を受けた。担当は店長の男で、まともそうだったが、とにかく機械的に履歴書を読み上げて確認をとるだけだった。質問をしても「採用することになったら説明します」とロボットのように繰り返す。直感的にここはヤバいと察した。時給は悪くないが、他に採用されなかったとき以外はやめておこうと思った。

 午前の面接は終わった。昼食を取りたいが、時間の余裕がない。電車で3件目の説明会へと急ぐ。場所は大摩羅駅から徒歩10程にある工場だ。
 工場の仕事は検品、梱包、運び出しなどが、その日によって変わるという。勤務日と時間は不定で、人員に空きが出そうな場合に、バイト登録した者に連絡がくるというシステムだった。とりあえず登録しておけば、仕事にはありつけそうだ。

 説明会が終わり、遅めの昼食をとることにした。寒かったので、温かい蕎麦が食べたくなった。説明会場から大摩羅駅へ戻る途中に、蕎麦屋があったはずだ。
「……どうして?」
 蕎麦屋の前まで来て、首を傾げた。この店には来たことがない。なのにスマホで調べずとも、自然とたどり着いていた。もしかしたら以前、通りがかったことがあるのかもしれない。
 色あせた暖簾をくぐり、戸を開けると、大将らしき男が出迎えた。いかつい見た目だが、舞を見るとすぐに微笑んだ。
「ああ、どうも。今日はおひとりで?」
「はい。ダメですか?」
「いえ、どうぞ」
 男の言ってることがわからなかったが、小上がりの席に案内され、座布団の上にあぐらをかいた。お品書きに目を通す。どれも美味しそうだったが目移りすることなく、なぜか即決した。
「あったかい肉蕎麦と半カレーください」
「あいよ」
 やりとりは淀みなく流れた。舞は初めての店で注文をするとき、わけもなく緊張するのだが、どうしてかそれが起こらない。
 テレビに映るワイドショーでは、〇□メガネのイェール大学助教授が、歯に衣着せぬ物言いで、司会者たちを困惑させている。
(あのメガネ、いいなあ。どこで売ってるのかな)

 注文の肉蕎麦と半カレーが運ばれてきた。
「いただきます」
 まずはカレーから手をつける。古風な見た目に反してインド風の味わいで、スパイスがよく効いていた。続けて、肉蕎麦のツユを吸う。甘くまろやかな味が、口の中に残ったカレーと調和して、幸福をもたらした。
「おいしいですね、これ!」
 舞は誰もいるはずのない対面に向かって笑っていた。声は客のいない店内によく響いた。
(あれ……なんで?)
 大将らしき男が厨房から顔を出すが、自分に向けられた言葉ではないとわかると、すぐに引っ込んでいく。
 顔がカッと熱くなったのは、蕎麦とカレーだけのせいではなかった。
(私、誰に話しかけようとしてたの?)
 誰かと料理の美味しさを共有したくて出た言葉だ。しかし思い出せない。存在しない人間なのだから。
 顔の熱が引いて、汗の冷たさが押し寄せてくる。舞は当たり前なのだが、ひとりであることを強く自覚した。急に胸が沈むように重くなる。それは孤独感ではない、大きな喪失感であった。なにも失ってなどいない、最初から自分は持たざる者なのに。この締めつけられるような苦しみはなんなのだろう。
 わからないまま、舞は肉蕎麦と半カレーの残りをたいらげた。感動するような美味しさは、二度と味わえなかった。
 お会計を済ませると、大将らしき男が不器用にウインクする。
「また、お待ちしております」
「どうも、ごちそうさまでした」
 また来たかったが、苦しみが増すだけのような気がした。

 店を出て大摩羅駅に戻り、自宅のある南裏筋方面の電車に乗る。
 吊革につかまり、揺られながらスマホを画面を確認する。こんなに揺れるものだっただろうか。急に気になった。少し前までは、一切の重力を感じない車に乗っていたような……助手席に座り、くるみに包まれた赤子のように、運転を預けて眠っていたような……
 妄想か思い出か混沌とした脳内をかき回していると、頬に生ぬるい液体が流れる。
(なんで? 今日の私、どうかしてる。でも……)
 コートの袖で拭っても拭っても、涙があふれてくる。鼻水まで出そうになったので、慌ててすする。周囲の乗客が何事かと顔を覗きこんでは知らぬふりをする。一体どうしてしまったのか、舞が理由を教えてほしいくらいだった。
 眼前の席に座る老婆に腕をポンポンと叩かれ、ようやく涙が止まる。
「よかったら座って休む?」
「いえ、すぐに降りるので。ありがとうございます」
 舞は鼻声で断った。優しさに甘えたら、また悲しくなる気がして。

 南裏筋駅に着き、逃げるように改札をくぐった。家へと向かって歩き出すと、女が道をふさいできた。
「お、水原じゃん。水原だよね」
 酒ヤケした声に、心当たりはない。上品に着こなした赤いコートとベージュのロングスカートは声とミスマッチで、ナイーブになっていた舞の心を理不尽に苛立たせる。
「ほら、安斎だよ。毛気矢場中で、3年のとき同じクラスだったっしょ」
「ああ……」
 思い出した。ヤンキー好きのビッチ安斎だ。目立ちたがり屋の仕切りたがり屋で、合唱コンクールのときも、体育祭のときも、球技大会のときもリーダーを気取っていた。なにも上手くこなせない舞は、よくなじられたものだ。しかしクラスのヤンキー男子が、舞の父の件をイジってきたときは、かばってくれた。それが情けなく、舞は安斎に激しい劣等感を持っていた。
「懐かし~。今、なにやってんの?」
「転職活動中」
 バイトといえばいいのに、なぜか見栄を張ってしまった。
「ジャージで? いや、コートの下、ジャージでしょ?」
 首をかしげ、舞の足元を見てくる。
「まあ、うん」
「あはは、ヤバ。髪も染めてるし。そういうところ変わってないね」
 ごもっともだった。なぜ自分はスーツでなくジャージなのか? なぜピンクに染めたままなのか? 執着する理由などないはずなのに。恥が埃をかぶっていた劣等感を叩き起こす。
「昔、ずっと心配してたんだよ。全然ちゃんとしてなかったからさ」
 善意からの言葉に、舞は奥歯を噛み締める。
(お前に何がわかる……!)
ちゃんとしてない・・・・のではない。できない・・・・のだ。劣等感は怒りとなり、血流にのって全身を駆け巡る。
「そういうところ、変えないと。じゃ、がんばって」
 安斎は、酒ヤケ声で舞の肩を叩いた。風呂でも入ったようにサッパリした顔だ。説教をしてご満悦なのだろうが、こちらは通り魔に刺されたのと同じだ。たまったもんじゃない。
「待って」
「ん?」
 去ろうとした安斎が立ち止まる。舞は怒りで震える手に力を込め――

「相撲はなしだよ」

 ハスキーな、だが安斎の酒ヤケ声とは違う、染み入る優しい声がリフレインした。舞の怒りは入浴剤のように、その温かさの中へ溶けていった。手に蓄えた力を開放する。
「ありがとう、安斎さん。ちゃんとしてみる」
「うん。またね~」
 安斎は呑気に手をヒラヒラと振り、駅へと向かっていった。
 舞の首元に風が流れこんでくる。それは身を震わすものではなく、清々しい風だった。なにも立派なことなどしていない。腹が立ったからといって相撲をしないのは、当たり前のことだ。普通なのだ。それでも舞にとっては大きな一歩だった。誰かもわからぬハスキーな声の主に、舞は感謝した。
(だけど……)
 怒りを飲みこんだせいで、守れなかったことがあった気がする。大切な人を目の前で失う瞬間まで、なにも動けなかった弱い自分……あるはずのない惨劇の記憶に、また胸が重くなった。そして再び涙が舞の頬を伝う。
(わからない。わからないけれど……家族と友達以外に大切な人がいたんだ。でも、その人はどこ……)
 見つかるはずのない相手を、駅前の雑踏の中に求めた。しかし目が合うのは怪訝な顔を向けてくる道ですれ違う人たち・・・・・・・・・ばかりだ。
 言いようのない喪失感が膨らんで、足を速めた。なのに家まで5分の道のりが、やけに遠い。信号を待つあいだ深呼吸をして、涙を抑えようとするが余計に溢れ出てくる。
 こんなとき雨が降っていてくれたら、涙をごまかせるのに……だが夕方の空は雲ひとつなく、赤紫色だった。

 次の日も、その次の日も、舞は面接に出かけた。髪は黒に戻した。ピンクのジャージではなく、久々にスーツを着た。当たり前のことだが、今の自分にできる精いっぱいをやった。
 しかしどの面接も落ち、バイト登録した工場からの連絡もない。そうして平日は終わり、土日もあっという間に過ぎた。

 2022年 12月19日 7:50。
 舞は生ごみを捨て終え、リビングに戻る。母が濃いめの化粧をして、出かける準備をしていた。仕事は休みだと聞いていたので、私用だろうか。
「お母さん、お出かけ?」
「神汁騎士の講演会にね。その前に、神汁を紹介してくれた鈴木さんとお茶をするの」
 母はやせこけた顔に反し、弾んだ声で語る。
「神汁を1年間以上、継続購入しているとゴールド会員になれてね。会員専用の講演会なの」
 母はナマの神汁騎士に会えるのが楽しみなのだろう、すでに遠くを見るような目をしている。
(まずい! このままお母さんを行かせたら取り返しがつかなくなる気がする!)
 背中に悪寒が走った。理屈も理由もない。母を活かせては行けないという予感だけがあった。
「ねえ、お母さん」
 引き留めようと、母の手首をつかんだ。しかし押し返され、壁に背中をぶつける。殴られたとか、突き飛ばされたとか、そういう力ではない。大樹が成長して幹を伸ばすかのごとく、自然な、決して抗えない力によって、ゆっくりと押しのけられた。母の心は、知らない大地に深く根を張っていて、引っこ抜くことも、押し倒すこともできそうになかった。
「いってきます」
 母は心ここにあらずといった目をして、靴ベラでヒールを履き、ドアを開けて出ていった。いつもなら大きな音がしないよう、ゆっくりとドアノブを持って閉めるのに。
 舞には最後の別れのような気がしてならなかった。いや、すでに母を失ったとさえ思えた。舞の心に、得体の知れぬ大穴が広がっていく。 

 とはいえ、この不安は勘違いだろうと舞は思っていた。かつて「冬というものは、わけもなく寂しくなる」と、テレビで偉い人が話していた。加えて、今の舞は無職だ。その焦りから、情緒不安定になっているのだろう。舞は”犬まんま”をすすりながら、テレビをつけた。しばらくニュースやら芸能情報やらが流れ、占いのミニコーナーに差し掛かる。


「今日のアンラッキーさんは、しし座のあなた。残念~。違和感を見逃したら、大切なものを落としてしまうかも? ラッキーアイテムはウナギ。精をつけて、困難を乗り切りましょう! 今日も行ってらっしゃい!」

 すぐにテレビを消した。
 舞の誕生日は7月24日のしし座。こんな占い、普段ならどうってことない。だが母の異様さもあって、今日だけは信じなくてはいけない気がした。ちなみにこのコーナーで占いの文言を担当しているのは“アーミラ・カーヤ”なる人物だった。画面の右下隅に小さく表示されていて、いつもは気づかなかったが、今日だけはやけに目に入ってきた。
「カーヤ。信じさせてもらうよ!」
 舞はピンクのジャージに着替え、ダッフルコートに袖を通し、ガス栓が閉まっていることを確認し、カギをかけ、走り出す。

 舞が真っ先に訪れたのは北裏筋駅だった。この周辺で母がよく友人とお茶していると聞いていたからだ。しかし、どの喫茶店に顔を出しても、母はいない。
 少し駅から離れて、商店街と歩いてみた。そこから一本外れた歓楽街も。だがお茶をしそうな店は見当たらない。胸元を着崩したキャッチの男が、道行く男性に節操なく声をかけている。

「おにいさん、乳首どうっすか。ピンピンですよ」

 ピン……ピン……?
 舞の頭で、閉ざされていたはずのドアがギイ……とゆっくり開く音がした。自覚した瞬間、舞はキャッチの男に早足で歩み寄っていた。
「あの、ピンピンって?」
「おねえさんも、乳首どうっすか。ピンピンですよ」
「朝からですか?」
「夜勤明けのお客さんもいらっしゃいますから」
 当ては外れたようだ。単なるいやらしいサービスのキャッチでしかなかった。
「それとも、おねえさんバイト希望? ピンクの髪でピンピンとなったら、これは最高ですよ。指名ナンバーワン間違いなし!」
「ピンクでピンピン……!」
「いや、はは。この前、出禁になったお客さんの受け売りなんですけどね。ケンシさん? だったかな。酔っぱらってクダまいてたんですよ。ピンクでピンピンを名乗ってるのにサービスが悪い店が他にあるとか、キンタマを蹴られたとか。タバコのカートンがどうとか」
「ピンクでピンピン……ピンクでピンピン……!」
「おねえさん?」
「ピンクでピンピン、ピンカートン! それだぁっ!!」

 記憶の扉が完全に開いた。
 真っ暗闇の中に、宝箱がひとつ置いてある。
 舞はそれをゆっくりを開ける。
 ガラスだ。虹色のガラス片がいくつもキラキラと輝いている。
 触れると、指先から血が出た。痛い。
 それでも逃げない。逃げたくない。
 勇気を振り絞り、ガラスのピースを組み合わせていく。
――なんか手から炎を出す、名前を知らない男。
――ウナルの大瓦。
――シンプル暴力の小原。
――スケベエステティシャンの膳。
――タマちゃん。
 自分が何と戦ってきたかを思い出す。
 まだパズルは完成しない。ピースを埋めていく。
――カレースパイス調合が得意なイエロー。
――つんつん男、ブルー。
――熱血マイルドヤンキー、レッド。
――出歯亀下衆男、ゴールド。
――まだ会ったことのない交渉人、ホワイト。
――テポドンに逃げ惑う、名前すら知らない軍団の残り。
――イメージに反してインスタントコーヒーしか作らない岸田。
――大物か小物かよくわからない第2の細木数子、綾子。
 出会った人々の顔がよみがえり、パズルの9割が完成した。
 しかし、現実の声に意識が引き戻される。

「おねえさん、どうしました? 急にイッちゃったからビックリしましたよ」
「今、精神世界でいい感じなんだから静かにしてて!」
「ええ? ……ラリってんのかなあ」
「うるさい!」
「すみません!」

 パズルはまだ肝心のピースが揃っていない。宝箱からガラス片をつかみ取る。憎むべき者たちの姿が浮かび上がってきた。
――テカテカジェノサイダー、神沼。
――トレンチコートを着た大柄の男、宝屋。
 返送者たちを裏から操り、罪なき人々を陥れた元凶。
 大切なものを奪ったクソ野郎ども。
 そして私の母をも奪おうとするクズ野郎ども。
 宝屋、神沼。こいつらだけは絶対に許さない。

 だが、まだだ。一番大切な最後のピースが残っている。
 舞は宝箱の底に手を伸ばす。
(いたっ!)
 鋭い痛みが走った。手のひらから、血がしたたり落ちている。記憶が呼び起こされることを拒否しているようだ。その理由はわかっている。
 あまりに痛ましい喪失の記憶。
(でも、忘れたままではいられない!)
 掴み取った最後のピースには、大切な人のヘラヘラした笑顔が写っていた。それを置いてパズルを完成させる。
――芸能スキャンダルが好きなこと。
――菓子パンも好きなこと。
――Jリーグカレーは、もっと好きなこと。
――なんか変な棒を持ってて、強いこと。
――ドリフターズは加藤推しなこと。
――しょうもないことで、よく笑うこと。
――一緒に、美味しい蕎麦とカレーを食べたこと。
――軍団にテポドンを撃ちまくったこと。
――記憶がない返送者で、悲しみを内に秘めていること。
――私を真剣に叱ってくれたこと。
――それでも、やっぱり優しい笑みを見せてくれたこと。
――その笑顔が散弾にブチ抜かれて、跡形もなくなったこと。
 すべて、すべて思い出した。
 涙はもう出なかった。代わりに、温かいものが頭からつま先までを満たした。その使命感と勇気は、青い炎となり、全身からバーナーのように噴き出す。
 恐れるものはない。決して生きることを諦めたからではない。諦めたくないから、守りたいから、命を賭して戦う。もう二度と奪われてなるものか。

「イチコさん。私、あいつらをブチのめします! お母さんを守ります!」
「うわおっ!?」
 大声を出したので、キャッチの男が飛びのいた。
「おねえさん、またイッてましたね。こりゃとんでもないスケベだ。やっぱり、うちで働いてくださいよ」
「それは無理。でも、ありがとう。あなたのおかげで、大事なことを思い出せた」
「はあ……」
「探偵社をクビになったら、働かせて。乳首には自信があるから。それじゃ!」
「意味わかんないけど、がんばってください! いつでもお待ちしてま~す!」
 キャッチの男の声援を背に受け、舞は駅へ引き返す。

 行くべき場所はひとつ、ピンピンカートン探偵社。

つづく。