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【カサンドラ】 44. 懐かしい家

ここで暮らしていた、20年前。
現在は営業していない店がほとんどだが、
あの頃とほとんど変わらない景色を眺めながら
タクシーの運転手と会話を交わした。
ここら辺は駄菓子屋とか電気屋なんかがあって、
こっちには魚屋があった。とか
あそこの道の突き当りを右に折れると、長い登り坂があって
春になると桜のトンネルができる。とか
私を都会からの訪問者と認識して自慢げに語るこの土地の説明を
まるで初めて聞くかのように感心して聞いてみせた。
当時ガソリンスタンドがあった所がコンビニになっていたので
そこに車を停めてもらい、タクシーを降りた。
空気の匂いまでも、あの頃のまま。
時間が巻き戻るのに合わせて、私も10代の少女に還っていく。

コンビニでは緑茶を2本と、アイスレモンティーのペットボトルを1本買った。
ガサガサとコンビニ袋を下げ、津々と冷え始めた空気に包まれながら坂を下り、路地を進む。
何度、帰りたくないと思ったかわからない、あの道を
一歩一歩、還ってゆく。

大江廣元の屋敷跡を示す石碑の路地に入って、最初の角の家は、猫をたくさん飼っていて、
ちょうど目線ほどの高さの塀の上にはいつも猫が座っていた。
その隣の家は、耳が不自由なご夫婦が住んでいたが
現在は何かの事務所として使われているようで、人の気配はなかった。
更に一歩進めると、木製の木戸から茶色の鉄製に変わった真新しい門扉がある。
ひんやりとしたレバーを下げて押し開け、砂利道を進むと玄関の扉が見えた。
家の中から、母親の好きなカラヤン指揮の「ボレロ」が流れているのが聴こえる。

私は一度頭を擡げ、深く長い呼吸をしてから
玄関の扉を睨み付けた。
瞬時に溢れだす、いくつもの悲しい記憶と共に
バリバリと音を立て私の身体は別の生き物へと変化した。
獣のような粗い呼吸を繰り返しながら丸い真鍮のドアノブを捻り、
一番手前にある仕事部屋で背中を丸めている父親の背中に向かい
靴のまま突進した。


Johann Joseph Fux-Kaiserrequiem

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