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中国先秦の盗掘

 歴史雑記027
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前言──汲冢書一件

 前回の記事で盗掘について少し触れた。中国で古墓の盗掘が頻発するのはなにも昨今に限ったことではない。
 先秦期より盗掘は深刻な問題であった。今回は、文献から葬儀にまつわる議論を参照しつつ、今のところもっとも多次におよぶ盗掘にさらされた王墓についても紹介しようと思う。

 中国における盗掘といえば、よく知られるのは晋の武帝・司馬炎の太康2年(281)に汲郡汲県で、不準という男が摘発された事件である。これは『晋書』束晳伝に詳しいが、戦国魏の襄王(あるいは安釐王とも)の墓を暴いたもので、実に車数十台ぶんの竹書(汲冢書と総称する)が出土した。
 ただし不準(とその一党)が目当てとしたのは科斗文字(科斗はオタマジャクシ、先秦の字形を総じてこのように呼んだ節がある)で書かれた竹書であろうはずがなく、その他の副葬品であっただろう。実際、盗掘者たちが竹書を松明がわりに燃やしたため、官吏がこれを押収した際にはすでに一部が消し炭になっていた。
 このときに押収された竹書は、当時一流の学者たちによって解読されたが、残念ながら完本に近い形で伝来するのは『穆天子伝』のみで、『竹書紀年』など他の文献は散佚し、佚文やそれを集めた輯本の形でしか伝わらない。

 上述の汲冢書の一件は、束晳伝などから出土文献の内訳やある程度の内容がわかる例であるが、これは「盗掘者がたまたま捕縛され」「大量の竹書が押収され」「当代一流の学者たちが解読し」「その顛末が正史に記され」「一部が写本から版本となり伝世する」という非常に稀な条件が重なっている。
 盗掘は想像以上に横行し、その多くは摘発を免れていたと考えるべきだろう(余談だが、始皇帝陵にも盗掘抗が複数確認されている)。

『呂氏春秋』──戦国最末期

 いったい盗掘というのは、階層社会が出現し、墓葬に格差が生じた生じた段階で起こりうるだろう。よって、文献をはるかに遡る時代から盗掘は行われていたと考えるべきなのだろう。
 しかし、それでも富を集積した権力者は大墓を造営したし、盗掘もまた尽きることがなかった。これは日本においても同様で、たとえば伝大仙陵古墳出土とされる銅鏡や環頭大刀がボストン美術館にあるし、厩戸皇子の磯長陵には高師泰の兵が乱入して狼藉をしたと『園太暦』に見える。
 中国において伝世文献上に盗掘にかんする記述が現れるのは案外遅い。

 国彌大、家彌富、葬彌厚。含珠鱗施、夫玩好貨寶、鍾鼎壺濫、轝馬衣被戈剣、不可勝其数。諸養生之具、無不従者。題湊之室、棺槨数襲,積石積炭、以環其外。姦人聞之、傳以相告。上雖以厳威重罪禁之、猶不可止。(『呂氏春秋』孟冬紀節葬篇)

 『呂氏春秋』は前239年の成立で、戦国末期の雑家に分類される大部の文献である。上記の部分はいわゆる薄葬論(葬儀や墓を簡素にすべきであるという主張、厚葬はその逆)にも接続するが、当時の秦が六国を圧倒する強大な国家であったことを考えると、厚葬化が進んでいたのやもしれない。さらに、副葬品や墓の工法についてまで具体的に言及があることも史料として面白い。
 そして、このような厚葬の墓が作られると「姦人聞之、傳以相告。上雖以厳威重罪禁之、猶不可止」、ようするに悪人がこれを聞きつけると、国君がいかに重罪を課してこれを押しとどめようとしても、墓暴きを抑止することはできない(だから厚葬をやめるべきだ)というのである。
 信賞必罰を旨とし、律令制が早期に発達したと目される秦ですらこの有様であったと捉えるならば、六国ではもっと状況は酷かったのかもしれない。
 同じく孟冬紀安死篇は、人間の寿命は長くても百年を超えることはない、と述べた後に以下のように続ける。

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