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色々ありすぎな2023年を振り返ってみた

2022年12月10日 愛媛県に移住

みらコミテック(https://mct-program.com/
を終えた私は、無職で収入もなく、アルバイト先も決まっていない状態の中でも、個人事業主として愛媛県松山市に移住しました。
引っ越し先、つまりアパートを借りるにも一苦労でした。
無職、貯金無し、そんな状態の人に仲介業者は家を貸すことはしてくれません。
大学生、正社員の時にはあんなに簡単に借りることができた家も、今は話を聞いてもらうことすらできないのか、と、挑戦の一歩目でまず心が折れそうでした。
みらコミテックで出会った先輩にめちゃくちゃ助けられて無事アパートを契約することができました。(感謝しかない)
アパートに無事引っ越しが完了しましたが、愛媛県は、大学の時に住んでいたからなじみがあると言えど、私が学生時代に心を許していた相手はみんな県外に行ってしまっていて、
正直、愛媛県はこの時点で決して居心地が良い場所でも、なかったです。
引っ越し当日のご飯は、卵かけご飯だったのを今でも覚えています。
なけなしのお金(数万程度)しか残っていない中、外食には行けない日々が続きます。

それでも実家を出て私が移住した理由

ここまで聞くと「まずは実家に居ていけそうなタイミングで移住した方がいいのでは?」という声が多数出てきそうですが、じゃあその正論を踏まえた上でなぜ私が固定費もかかるのに引っ越したか?を説明します

まずはテックアイエスコワーキングがあるから。これが正直大きかったです。
みらコミテックに参加して、テックアイエスの存在を知り、そこにいる方たちのアクティブさ、モチベーションの高さを知り、身銭を切っても、固定費がかかってもここにいようと覚悟を決めたからです。

決してそこに居たからといって、それだけで自分が勝手に成長してくれる訳ではありません。でも、私はこのコワーキング(コミュニティ)で仕事をしようと思いました。

二つ目は、逃げ道を絶つためです。
実家に居れば究極なにもしなくても住む家がある、美味しいご飯が食べられる、少しバイトするだけでおそらくここでめちゃくちゃ頑張るより可処分所得は多い気がします

そして私の地元はかなり田舎のため、このモチベーションを保ちつづけることが難しいと思いました。私は自分の心の中にある微量かもしれない炎を消したくなかったのです。

固定費で消えるバイト代

松山に移住してからまずは最低限の生活費を確実に払い続けるために、
アルバイト探しから始まりました。
アルバイト先はすぐに決まり、私はマーケティングの仕事をシフト制で始めました。
12月に移住して8月までの8ヵ月間は、稼いだお金は全て生きていくためのお金で
飛んでいく日々が続きました。

それでも、バイト以外の時間は、自分の事業のことをひたすらしていました。
経験もない、人脈もない、そんな私でしたが、当時はただひたすらに悩み、PCと向き合い、色んな方に会う日々を送りました。
やっと仕事をいただけたと思っても、対面での打ち合わせで相手方からスタバを指定されたときは、「う、、、、」となりながら1番小さいスモールサイズのラテを頼んでいました。

ここまで聞くと、「まずは絶対正社員になって経験積んでから個人事業主では?」と二回目のド正論が聞こえてきます

それは覚悟を決める前も経営者や先輩にも何度も言われました。
それでも、一旦その意見を受け入れて咀嚼した上で、それでも、自分にできることがあるはず、やってみたいという気持ちが強かったから始めました。

正論が正解とは限らないと思っていたし、やってみてまたそこから考えてみたらいいと本気で思っていたからです。

覚悟ってできるものじゃないと思うんです。するかしないかだと思うんです。

だから、毎日自作のお弁当の日々でも、原付すら買えず雨の日もマイナス気温の日でも毎日14キロ自転車を漕ぐ日々でも普通に淡々と続けることができたんだと思います。

毎日コワーキングで卵かけご飯など食べていたら、「かわいそうだから」ってご飯を連れて行ってくださった方もいました(今でも仲良くさせてもらっていますありがとうございます。)

(そんなにかわいそうなご飯を食べていたかなあ・・・笑)

いろいろやってみた8ヵ月間

個人事業主を始めてから正直色んなことをやってきました。
今はデザイナー1本でやっていますが、コーディングを毎日勉強してコードと睨めっこして
php書いてWordpressを構築する、なんてこともやっていましたし、普通にデザインの仕事を単発でしたりしていました。
その他にも本気で事業化しようとしたものとして「AI導入支援事業」です。
こういうとかっこいいですが、ChatGPTが流行りだした時に、自分もコードを書きながらもかなり頼っていたので、もしかしたら、このノウハウは活かせるのではないか?と思い、
ChatGPTの講座開催をしはじめました。

(有料、無料含む)学生対象、社会人対象、プログラミング学習者対象の全3回を行いました。

自分主催で講座をすることが今までなかったので、これは事業化には至りませんでしたが、
かなり良い体験をさせてもらいました。

と、アルバイトではマーケティング業務に携わったり、自分で講座を開いたり、コーディングの仕事も受けたり、デザインをしたり、といい意味では、たくさんのことに挑戦している、懸念で言うと浅く広くなってしまっているという日々を過ごしていました。
解雇を経てデザイナーとしてキャリアを築いていくことを決めた8月

色々やりながらも、どうしても地に足がついていない状態が続いているなと自分の中でも感じていました。
私はデザイナーなのか?コーダーなのか?マーケターなのか?
友人に電話で相談したり、その中で「私はどれも捨てることができないんだ」と言いながら
なんだかんだ絞ることができない日々が続きました。
その中で、きっかけとも言うべき出来事が起こります。

いつも通りアルバイト先で仕事をしていたら、社長から急に呼び出しをされました。
なにか?と思うと、会社の方針変更による解雇でした。
いきなりのことだったのと、解雇なんて初めての経験だったのと、生活費を賄っていたバイト先だったため、その場で気付いたら涙が出たのを覚えています。

しかもその日は一粒万倍日という1年の中でも”なにかを始めるには最適な日”とされ、運の良い日ともされています。

私は、その日は仕事を終えて、コワーキングまで行く道で、「どうする?実家に帰る?」「生活保護?」ともんもんとこれからの自分の生活のことを考えて若干事故りそうにもなりました。

コワーキングで自分の作業をしながらも、もちろん来月も再来月も家賃は引き落とされる訳で、唖然とPCを見ながらこれから当たり前にくる生活のことを考えていました。

しかしながら、悩んでいたのも束の間、先輩と話をして、具体的な数字(固定費)と現状を細かくホワイトボードに書いて、

”この解雇は私がこれを機に絞って新しく進むためのきっかけをくれたんだ”とそう捉えることができました。

別れがあると出会いがあるというのは本当で、そこから仕事を死ぬ気で探して、たくさんアプローチしていたら、そこから2社長期固定契約が決まりました。

これは確実に運が良かったのはありますが、動き続けたことがそれに繋げてくれたと思っています。

これがきっかけで私はデザイナー1本に絞り、そこに焦点を当ててキャリアを築いていこうと決意しました。

コーディングのお仕事のお話をいただくこともありましたが、時間は全てデザインに注ぐと決めたので、確かにお金に余裕がないそのときに、確実に今自分ができることで貢献できるなら受けた方が良いのかもしれません。それでも、長い目で見るということを意識して、
デザイン以外のお仕事は断ることにしました。

デザイナー歴1ヵ月目をスタートさせてから今まで

デザイナーって教員免許みたいに資格もいらず、正直名乗ろうと思えば名乗ることができます。
私も新卒から1年経ちますが、名乗ろうと思えば、2年目と言うことができます。

それでも私はデザイナー歴0年に戻して新たな気持ちでデザインに向き合おうと決めました(私の心の中での問題ですが)

理由は、1年間たしかにデザインの仕事もしてきたし、触れてもきました。
でもそれは本気でデザインと向き合った時間ではなかったし、今思うとこれで満足してたんかいと思うレベルでした。

なので私は今年8月から、デザイナーとしての人生が始まった、そんな認識です。

デザイナーとして仕事をして5ヵ月、1人でしていた時とは
全く違った環境で、デザインをさせてもらっています。

視座、フィードバックのレベル、私は、このレベルでデザイナーと名乗っていたのかと
思い知らされることばかりの日々でした。

デザイナーと言っても厳密には、UI/UXデザイナーとして今は仕事をしています。

今は、目標とするレベルの最高レベルの中の最低レベルにまでせめて引き上げるため、日々模索しています。

変化の2023年を振り返って思うこと

間違いなく、人に恵まれた年だったと思います。

私が去年12月に愛媛県に移住した当初は、コワーキングに居ても1人で作業していました。
使っている人やスタッフも居ましたが、私から話しかけることもなく、最初のころは
コワーキングに通い詰めていながらも、孤独を背負って仕事をしていました。

個人事業主だから当たり前だとは思うのですが、孤独に負けた時も、たくさんありました。
通帳残高も見て心が折れた時も、友達に誘われる飲み会にいけなかったことも、なかなか成果が出ず、バカにされたことも、ありました。

それでも、毎日コワーキングに通い続けました。土日問わずゴールデンウイーク問わず
毎日10時から22時まで。ひたすら淡々と粛々と続けていました。

すると気付いたらスタッフと仲良くなり、一緒にご飯に行ったり、冗談を言い合ったりする人が増えました。
”いつも頑張っているね”と応援してくれる人も増えました。
確かに泥臭い、決して綺麗ではない、そんな私の毎日を見て、
寄り添ってくれる人もできました。
こうして、スタッフだけじゃなく、その周りに居る方とコミュニケーションを取ったり、こうして仕事内容も立場も違うけれど、居場所ができ、毎日抱えていたような孤独感は感じなくなりました。

「お疲れ様です~」しか会話しなかった相手と今はこうして、22時に帰ろうとしたら「もう帰るん?そんなんでいいん?」と言い合えて高め合える仲間になれたことは、
有難いことで、これも毎日通い続けてやり続けたその結果だなあと思いました。

そして、このまるまる1年間、こういった生活を続けてきて、”当たり前の基準”がかなり底上げされました。

よく、自分を変えるには環境だ”というけれど、まさにその通り。

365日、昼夜とお弁当を作って朝から22時~0時まで勉強、仕事する。

これが歯を磨くかのように、特に頑張ろうと思わずともできるようになったのは、
やはり環境のおかげだと。

環境が人を作り、人が環境をつくる”と私の友達の大事にしている言葉があるのですが、
まさにその通りで。

私はその環境に日々助けられているからこそ、コワーキングとかそういう形でなくても、私も環境を作る側にいずれなりたいとも思いました。

この1年間、色んな事がスタートしました。

むしろやっと始まった、そんな感覚です。

それでも、私が2023年という割と茨の年をこうして積みかさねることはできたのは、
周りがいてくれたからだと思っています。

デザイナーとしてのスキルは勿論仕事をしていく中でとても重要で、これからもスキルを伸ばしていくために、進んでいかなければなりませんし、遊ぶ時間も割きながら、もがくことも必要で、これからもそれは変わらずやっていきたい。

それでも、私は、応援してくれる人、いつも気にかけてくれる人、
濃い関係を大事にして、そして自分らしさも大事にして、仕事をしていきたい。

そして、不器用で嘘がつけなくて、でもいつも少ない数かもしれないけれど
辛いときに手を差し伸べてくれる人がいる、そんな自分を変わらずに、これからも歩んでいきたい。


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