東浩紀『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』

《25年後の『存在論的、郵便的』から『訂正可能性の哲学』へ──東浩紀氏とのディスカッション》のイベントに参加するため手に取った。

哲学書は足が速い。
何もすぐに古びてしまうなどと言っているのではなく、たちまちどこに置いたか分からなくなってしまうという意味だ。
とにかく、言えるのは、動かしすぎてはいけない、ということだ。
だから、やっと捕まえたと思ったら、よくよく見れば三度買いだったりもする。
額なりやすい割に、学なり難し。
棹に枕すれば寝にくいし、将に釘刺せば流される、とかくこの世は住みにくい。
ということで、読みながら寝るか、読まずに寝るか、それが問題だ。
どうやら、今回は(今回も)「表層批評」になりそうだ。
だまれ!この半陰陽(半引用)めが!/

あまりの判らなさに中断していたが、数日間『フランス詩大系』を読んでいたら、こちらも輪をかけてちんぷんかんぷんで、無性に論理的な文章が読みたくなってしまった。
ということで本書に戻ったら、どういうわけか以前ほど読み難くはない。
決して分かるようになったという訳ではないが、別にそれほど読み難いとも思わなくなった。
現代詩よりは哲学書の方がまだ読みやすいということか。
〈現代詩→哲学書〉
この登山ルートは使えるかもしれない。/


【概念(郵便物)が哲学者(郵便局)のあいだを配達されていく、これが哲学に対するデリダのイメージである。新たな概念を提出し新たな哲学的固有名になること、それは新たな郵便物を新たな郵便局から発送することを意味する。】/


そもそも、僕あての郵便物ではなかった。
どうやら、誤配されたものだろう。
何かの有料会員向けの会報らしいが、郵便局に再配達を頼むか?/

イベントの方は、同日開催される「堀千晶『ドゥルーズ 思考の生態学』の合評会」の方を聴くことにした。
どちらを聴くべきか迷っていたので、その意味で読んで良かった。/

今少し 生きて己の 無能を見むか

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