安部公房全集003

「保護色」:
【「(略)カメレオンは皮下に多くの色素粒をもった色素細胞があり、視神経を通して外界の色がこの細胞に伝えられると、一定の色素粒だけが選択的に拡散または集合し、体色変化が起きるのです。(略)私の学説が正しいとすれば、あなたのような人が続出し、やがて人類の過半数が保護色を呈するようになるはずです。】/

案外、もうすでに多くの人類が保護色を持っているのではないか?
周りが赤なら赤に、周りが黒なら黒に、自在に体色を変化させることができれば、いつだって絶対に多数派でいることができる。
いじめやリンチにあう心配などこれっぽっちもない。
《保護色》とは、周囲に同化して目立たなくなる「隱れ身の術」なのだ。
これさえできれば、官憲にむやみに拘束されたり、収容されたりすることは決してない。
安心、安全この上なしだ。
ロシアや中国では、国民の大多数がすでにこの術をマスターしていると聞く。
流石、大国の臣民は違う。/


「飢えた皮膚」:
街角で石ころのように無視された腹いせに、浮浪者の「おれ」は金持ちの夫人に復讐しようと手紙を書く。
カメレオンのように外界の色に応じて皮膚の色が変わってしまう恐ろしい病気が流行しており、貴女も感染の危険があるが、自分が予防の薬を持っているからから会いに来いというのだ。
見知らぬ人物から来たその手紙を読んで、夫人は単身男に会いに行く。
そして、言われるがままにベッドに横たわり、男から渡された得体の知れない薬を飲む。/

おいおい、ちょっと待ってくれ!
認知症高齢者でもないのに、いったいこの世間にそんな女がどこにいる?
この流れはあまりにも荒唐無稽過ぎて、リアリティを欠いている。
もしかしてだけど、これって「公房にも筆の誤り」なんじゃないの?/

【安部 非現実的なものをやるにはリアルの面を追求して行かなければ出ない※。】(対談「新しい日本文学 新しい日本映画」より。)

※「出ない」は「出来ない」の誤植ではないか?/


「詩人の生涯」:

【ユーキッタン、ユーキッタンと、三十九歳の老婆は油ですきとおるように黒くなった糸車を、朝早くから夜ふけまで、ただでさえ短い睡眠をいっそう切りつめて、人間の皮をかぶった機械のように踏みつづける。

ー中略ー

ユーキッタン、ユーキッタン、やれやれ、私は〈綿〉のように疲れてしまった。(略)ちょうど手持の毛が切れている。彼女は皮袋の中の機械に命ずる。さあ、お止まり。ところが、不思議なことに、車はひとりでに廻転をつづけ、とまろうとしない。
車はようしゃなく、キリキリと糸の端によりをかけて引込もうとする。もう引込むものが何もないと分ると、糸の端は吸いつくように老婆の指先にからみついた。そして〈綿〉のように疲れた彼女の身体を、指先から順に、もみほぐし引きのばして車の中に紡ぎこんでしまった。】/

カフカの「流刑地にて」に登場する処刑機械にも似たシーンだが、僕は一つの映画を思い出す。
それは、マーク・ロマネク監督の『わたしを離さないで』(原作:カズオ・イシグロ)だ。
他人のために臓器を奪われるのは明らかに残酷だ。
だが、奪われるのが時間や幸福追求権や健康だったとしたらどうか?
常態化したサービス残業などをみれば、この国ではそれらはそこまで残酷な行為とは思われていないのではないか?
だが、その結果が臓器を奪われたときと同じく死をもたらすとしたら、はたしてどうだろうか?
1951年に書かれた作品ではあるが、安部公房が描いた貧困の風景は、案外今も少しも変わっていないのではないだろうか?/


「闖入者」(1951年11月):
戯曲『友達』の小説版。戯曲の方は1967年に発表された。
この作品、以前から苦手な作品だ。
という訳で、今回もまたアサッテな感想を述べる。/

状況証拠①:
闖入者の人数は9人、9人といえば野球のナインである。
野球といえばアメリカ、当時の日本においては、アメリカといえば連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーだったのではないか?/

状況証拠②:
闖入者たちの行動をみると、表向きは民主的な多数決の原理に基づいて行動しているように見せかけて、肝心なところでは暴力に物を言わせている。(あ〜らほんとにアメリカ的だわね〜)/

以前、テクスト主義者の方から、僕の読みが旧態依然とのご指摘を頂いたが、どっこいこちとら生まれも育ちも昭和ど真ん中である。
意味論、作家論ど真ん中なのだ。
テクスト論だろうが何だろうが、みんながみんなただ一つの読み方をしなければならないとしたらそれは宗教だし、ニール・ヤングじゃないけれど、読書とは「誤読の旅路」なのだ。/

「友達」も恐ろしいが、もっと恐ろしいのは、現在劇場で上映中の続編『兄弟』の方だ。
「よお兄弟!」といかにも親しげな顔で隣国の男たちが侵入してきては、老若男女を殺戮、掠奪、凌辱し、悪逆非道の限りをつくして、居座ってしまう。
『砂の女』に書かれているように、砂はかき出すのを怠れば、次々に家々を埋めつくしてしまうのだ。/

【「そんなら一つ考えようよ。どうやってあの連中を追い出すか‥‥」
「追い出すですって?私たちが逃出すのよ。」

ー中略ー

「何だって!それじゃ君は現状を認めてるの?」
「認めはしないわ。しかし変えることも出来ないと思うわ。カイゼルのものはカイゼルに、って言うわけなのよ。」】(安部公房『砂の女』/

【カイゼルのものはカイゼルに】、たしかに、おっしゃるとおりです。
「ウクライナは歴史的にロシアの領土だ」とウクライナ侵攻を正当化するドン・プーチンに教えて進ぜよう。
ロシアは歴史的にモンゴル帝国の領土だった。
何をボヤボヤしている!
今すぐ貢ぎ物を持ってモンゴルへ行き、皇帝に全領土を差し出し、帰順の意志を示すのだ。
運が良ければ、命だけは助けてくれるかもしれない。/


「アヴァンギャルド文学の課題」(1952年5月):
状況証拠③:
【反自然主義的な新しい目、新しい見方、それは今日では極めて大衆的でありうるのです。そうした見方で社会的な事件などを高い芸術として大衆に報告することが大きな意味をもってくる。

ー中略ー

今学者や文学者が破防法反対のための署名や決議を行っているが、若し彼らが本当にその変革する目をもって立上るなら、もはやそれは主観的な抵抗であることをやめ芸術家として作品で闘うところまで進むにちがいない。(略)
外部から植民地化されている今の日本の状態は、民族にとって恐るべき苦難の時代であるけれども、ー以下略ー】/

薄弱な状況証拠①〜③に基づく性急な結論:
この文章は小説「闖入者」の執筆後、ほぼ間をおかずに書かれたものであり、当時の安部の文学観を表したものである。
つまり、「闖入者」はこうした文学観に基づいて書かれた作品であり、【外部から植民地化されている今の日本の状態】(当時の日本は連合国軍最高司令官の支配下におかれていた。)を描いたものである。/

※ 小説「闖入者」の創作意図については、梅崎春生、野間宏、武田泰淳らとの対談「切実なもの」で軽くふれられていたが、ネタバレになるので引用は差し控える。/


「水中都市」:
どうせ荒唐無稽なら、このぐらいぶっ飛んでいてくれる方が、僕は好みだ。

【おまえ、お父さんは妊娠したのかもしれないよ。ごらん。一晩でこんなに体がふくれてきた。】/


「痘痕のミューズ」:
【「歌はいかにして作られたか」というゴーリキーの小説によると、その歌は、事務的に、糸を撚るように作られたということだ。

ー中略ー

その歌が、「天才的」に作られたのではなく、事務的に、糸を撚るようにつくられたということは、たしかにゴーリキーのすぐれた発見であろう。ゴーリキーは、創造の本質を、はっきり見ぬいていた。ミューズは、痘痕面の料理女であり、彼女の創造力の源泉は、しいたげられたものの悩みの、方向づけであり組織化であった。

ー中略ー

ぼくは歌を、いやなにも歌だけにかぎらない、あらゆる形式の文学が、たぶん言葉でつづり合わされたすべての発想が、本来、旅人の持つ地図、あるいは、技師のもつ設計図のようなものだと思っている。

ー中略ー

言いかえると、創作の方法には、現実認識の方法と、製図の方法とがあり、この両面の有機的関連の中に立つことによって、新しいリアリズムが可能になるわけである。】/

文学の力を信じる二十八才の安部公房の眼差しは、輝きを湛えて感動的ですらある。
この評論には「詩人の生涯」の評論版のような趣がある。
僕は以前『砂の女』を読んだときに、「砂をかきだす」行為を創作行為の表象のようにも感じたが、やはりあれは一般的な労働の表象なのだろう。
たしかに、創作行為の表象としては「糸を撚る」イメージの方がしっくりくる。/


「R62号の発明」:
【R62号君が始動スイッチの前に立ち、高水が社長の資格でしずしずと機械の前に進みよった。高水が仕事台に立つと、R62号君がスイッチを入れた。‥‥‥と、はじめは半坪の土台に、身の丈ほどの高さだったのが、たちまち倍もの大きさにひろがって、のばした両袖を音もなく内側にまわし、あっという間もなく高水をすっぽり抱込んでしまったのだ。おそろしくややこしい自動変速歯車が、コトコトとやさしく鳴りながら、ギラギラ光る刃物を、八方から高水に向かってはきだしはじめた。】/

最初に読んだときは感じなかったが、カフカ「流刑地にて」を読んだ後で読むと、〈流刑地にてそっくり〉だ。
ひょっとして、「流刑地にて」へのオマージュだろうか?/


「雑感」:
【最近、新劇について考えていることは、なんとかして型の発見と創造を組織的に追求しないと、孤立した現状からの恢復はむずかしいのではないかということだ。ぼくは個性よりも型を重視しなければならぬと思う。個性を無視するのではなく、型に従属させるべきだと思うのだ。型は民族や時代のリアリティである。】/


『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』の中で、
ドゥルーズは、映画を観るとき「待ち伏せ」をしていると言っていたが、安部公房の作品を読むときの僕も、たぶんそれと同じような心持ちだと思う。
安部公房作品には、ドゥルーズが言っていた芸術作品との「出会い」がある。

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