百年目の『ユリシーズ』

「『ボヴァリー夫人』のパロディとしての『ユリシーズ』ーー笑い・パロディ・輪廻転生」(新名桂子):
確かに、登場人物や細部の描写などが面白いように付合している。
これは、『ユリシーズ』の謎の一つを解明したと言い得るのではないだろうか?/


『ユリシーズ』のユグノー表象に見る移民像と共同体(岩下いずみ):
『ユリシーズ』におけるユグノー表象と、同じく移民であるユダヤ人としてのブルームについて考察することにより、ジョイスがこの作品で提示してみせた民族・共同体の新たな捉えかたや、アイルランドという共同体再考の可能性に思いを馳せている。/

【「国とは、同じ場所に住む同じ人々のことだ」(略)というブルームの言葉には、周囲にはユダヤ人移民と思われているかもしれないが、アイルランドに生まれ生活している自分はアイルランド民族、アイルランド、共同体の一部であるという思いと抗議が込められている。】(本書。【】内の引用は以下同じ。)/

「国」とあるのは、「国民」の誤植だろうか?
この部分を詳細に見てみると、丸谷・永川・高松訳による集英社版では、/

《ーー民族ですか?とブルームは言う。民族というのは同じ場所に住んでる同じ住民です。 (略) ーーだが、異なる場所に住む場合もあります。》(『ユリシーズ』/集英社/1996年/第二巻193p)
アイルランド民族というものはないので、単なる一般的な話となってしまっており、次の市民の 《ーーところで、お前さんの国(ネイション)はどこなんだい?》(同) とも、スムーズに繋がって行かない。/

このように、集英社版では、“nation”を「民族」あるいは「国」と訳している。
この部分の柳瀬訳を見ると、柳瀬訳では、“nation”を「国民」と訳している。/

《ーー国民ですか?ブルームが云う。国民とは同じ場所に住んでいる人々のことです。 (略)ーーあるいはまた異なる場所に住んでる。》(『ユリシーズ 1-12』/河出書房新社/2016年/553p)/

となっており、ここからは自分もアイルランド国民だというブルームの主張のみならず、「あるいはまた」以下の文からは、ヨーロッパ各地を彷徨いながらもアイルランドを描くことに拘り続けたジョイス自身の声さえも響いてくるのではないだろうか?/


「デダラス夫人からモリーへーースティーヴンの鎮魂」(中尾真里):
我が意を得たり!本書中で最も共感した論文。/

【母親がいなくなると家庭は崩壊する。[サイモン・デダラスには]子供が十五人いた。ほとんど毎年の出産だ。それがカトリックの教義で、そうでなければ可哀そうに、神父は女たちに告解を、罪の許しを与えてくれないのだ。殖えよ、地に満てよ。(Joyce,Ulysses 八挿話三〇〜三三行)】/

【註(3) ジョイスの母メアリ・ジェインも十五回妊娠し、十人の子を出産し、四十四歳で亡くなっている。】/

出産とは軛(くびき)だ。避妊を禁じ女を多産による出産と育児の無限連鎖の鎖で家庭内に閉じ込めておくことで、はじめて男性支配が不動のものとなる。
カトリックとは、男性支配を永続化させるために必須のツールなのだ。/

【モリーは、宗教と家庭、出産・育児に縛られたスティーヴンの母とは、対極的な生き方をしている女性である。(略)中でも大きく違うのは、モリーが多産を強いられていないことだろう。(略)妊娠出産をコントロールしているからこそ、モリーは、人生をすり減らさずに済んでいる。(略)過重な妊娠を免れているお陰で、モリーはコンサート・ツアーに出かけるし、中年になっても女の魅力を失わず、恋愛をすることもできるのだ。デダラス夫人にできなかった人生を、モリーは謳歌できている。
モリーという女性の創出のためにはブルームという夫が必要であり、モリーという新しい女性とブルームの出現には、スティーヴンの母への鎮魂の思いが強く働いていたと思われる。】/

亭主を尻に敷く浮気女モリーは、十五回も孕まされ、生涯を出産と育児に追われ、ボロボロになって死んでいったデダラス夫人、いやジョイスの母の輪廻転生であり、ジョイスは亡き母を夫や家庭に縛られない自由な女モリーへと輪廻転生させることによって、母の鎮魂を果たそうとしたのである。

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