見出し画像

ねぇ、先生。

 キッチンの流しに透明なコップを1つだけ置いて、蛇口から細くひねり出した水がゆっくりと淵に近づいていくのを眺めるのが好きだった。

  水がコップの淵にジリジリと迫ってゆく、あの息の詰まるほどに静かな緊迫感がたまらない。表面張力でコップに一瞬だけしがみついて、ほんの少しの間を置いて重力に逆らえなかった水が溢れ出す。わたしは両肘をついて、その光景を眺めている時が一番幸福だった。

 終業のチャイムが学校の終わりを告げる。その刹那、泥の中に浸っているようだった私の感情が、熱を持って蠢き出すのを感じた。自分を焦らすように、帰りの身支度を済ませる。カバンの決まった位置に教科書と筆箱を配置する。読みかけの小説は取り出しやすいサイドポケットへ、先生に課題として出されていたプリントは一番奥へしまいこんだ。

 学校の3階。夕方のこの時刻になると、理科室は日が良く当たり心地よい。最近、私が生きていることを実感できる唯一の場所。

 理科室のドアを開けるとタバコの香りがした。きっと先生は奥の理科準備室に居るのだろう。私は、彼が戻ってくる前に理科室の鍵を全て閉め、天然を装って理科準備室に顔を覗かせる。プリントが山積みされている机の上でパソコンをぼんやりと眺める先生と目があった。

 「あぁ、君か。また来たのか」

 先生は表情を変えずに言うと、手に挟んでいたタバコを灰皿に押し当てた。

 「1枚だけ課題の提出をし忘れたんです」

 「そう言って君はほぼ毎日ここに来るじゃないか」

 私は自分ができる最上級の笑顔で先生に微笑みかける。

 「ねぇ、先生。理科室の鍵、全部締めたよ?」

 彼は、軽蔑するような目で私を見て「だからなんだ」とつぶやきながら立ち上がり、私を置いて教室から出ていこうとした。私はそんな彼の手を、両手で掴む。いや、感覚としては絡め取ったと言った方が正しい。なるべくしとやかに、誘惑するように先生を引き留める。

 「やめなさい」

 そうは言うものの先生は私の手を振りほどこうとはしなかった。

 「ねぇ、先生。わたし、先生に相談があるの」

 できるだけ上目遣いで。先生はそんな私を見て、視線をグラグラと彷徨わせた。「動揺」という言葉を動きでそのまま表現したような姿だった。心の中でふふふと笑う。大人なのに可愛らしい、もっといじめてしまいたい。

 相談なんて大嘘で、存在しない悩み事をつらつらとでまかせで喋る。先生に会うために、ここ1ヶ月は嘘の相談を毎日考えていた。先生は理科室の机の上に腰をかけながら「うんうん」と相槌をうち、灰皿を持ちながらタバコを吸っている。私は先生の向えにあたる窓辺に腰をかけながら、それを眺めていた。野暮ったい髪型、女のように細い手足。裾が汚れている白衣。紫煙で視界がぼんやりとする。時々目が合うと、先生はぎこちなく咳払いをした。

 私はこぼれ出る笑みを抑えきれずに。

 「先生。タバコってどんな味?」

 そう言いながら彼に近づいてゆく。ひたひたと。先生は死神でも見たかのような、こわばった表情をしていた。私は耳元で囁く。

「ねぇ、教えて?」

 その時、先生の中にあるコップの水が溢れてゆくのを感じた。音もなく、ゆっくり、滴っている。あたりは一面水浸し。台無し。失敗。残念賞。

 気づいたら私は、さっきまで先生が座っていた机に仰向けに押し倒されていた。私は、瞬間的な驚きと同時に、突き動かす情熱が、しんと冷えてゆくのを静かに感じていた。タバコの匂いがまとわりつき、気持ちが悪い。

 先生はすぐにハッとなって、私から手を離し「すまん」と耳を澄まさないと聞き取れない弱々しい声で吐き捨てるように言った。

 私は覆いかぶさっている先生からするりと身を離し、カバンを持ってドアへ向かう。鍵をパチンと開けて、後ろを振り返った。

 「わたしね、先生の事大好きよ。ほんとよ。嘘じゃないわ」

 突然の宣言に、先生は顔を歪めていた。触れれば泣き出しそうだった。

 コップの水が溢れる寸前の緊迫感にとてもよく似ている、先生の感情の高ぶりがたまらなく好きだった。それを眺めている時が、私が生きていると実感できた。

 私のことが本当は大好きで大好きで仕方がないのに、それを隠している姿がたまらなくたまらなく愛おしかった。思いが溢れ出てしまわないように、必死でもがいている先生の姿が。私に思いを悟られないようにしている先生の仕草全てが。

 それを、眺めているのが一番の幸福だった。

 「僕も、僕も、君のことが好きだ」

 震えている。声が。身体が。でもね、先生。もう溢れてしまったから。これでおしまいなの。今のあなたには何の魅力も感じない。

 「そんなことどうでも良いの。私は別に、先生とお付き合いがしたいわけじゃない。重要だったのは、私が先生を狂ってるほどに愛せるかどうかで、それ以外になんにもいらなかったの。けれど、もう、溢れてしまったから」

 そう言い残し、理科室のドアに手をかけて私は外へ出た。あの先生が泣いていた。大人のくせに、みっともない。ジリジリと迫り来る欲望を相手に、必死に理性にしがみついて、耐え忍んでいるあなたを見るのが大好きだったの。でももう今のあなたじゃ、私の心は熱せない。けれど、理性が欲に負けたほんの一瞬だけは、醜いのに、背筋に戦慄が走るほど、この上なく美しく思えた。

 ねぇ、先生、大好きだったよ。狂おしいほどに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?