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あたたかな宇宙

 人間の骨というのはあんなにも軽いのね。

 そんなことを考えながら家に帰ると、真っ黒だったはずのワンピースに無数の光が溢れていた。薄暗い玄関で靴を脱ごうとしたときに気が付いた。誰かの化粧のラメが付いたのかもしれないかと思ったけれど、その程度のささやかな輝きではない。思わず目を細めてしまうほどだった。

 暗澹たる空気が漂うこの部屋よりも、ワンピースは夜闇色に染まっていてそこには光が、いや星が混ざり込んでいた。ただ一つとして同じものがない星の輝きが、強弱をつけて私のワンピースの中で命を燃やしている。

 体をひねるとワンピースの裾がふわりと揺れて、その拍子に小さな星がこぼれて音もなく落下した。床に散らばり、数回跳ねるとゆっくりと周りの闇に溶け込んでゆく。

 星が落ちてしまう、そう思うと身動きが取れなかった。陰ってゆく玄関でワンピースはまだ無数の淡い光を発している。私は息をするのもためらわれて、浅い呼吸を繰り返すしかなかった。

 その間もワンピースから目が離せなかった。

 肋骨の辺りで、流れ星が数個流れている。右の鎖骨からおへそを通って、腰のあたりまで長い天の川が架っている。星座が分からないほどにちかちかと輝く星は息をのむほど美しかった。

 不自然な体制で静止していたからだろう、腰に鈍い痛みを感じた。

 そっと、揺れないように靴を脱いで、息をとめながらワンピースを脱いだ。細心の注意を払ってはいるけれど、星はばらばらと小さなビー玉のように散らばって、最後の光を発して夜に溶けてゆく。

 足音を立てないように、ゆっくりとお風呂場まで移動した。その間も星は降り注ぎ、玄関からの道を煌々と光らし暖かな光の絨毯ができていた。ずっと眺めていたい光景だったけれど、瞬きを五つする間に奥の方からゆっくりと消えていった。

 私は乾燥しきっている浴槽にワンピースを寝かせた。ゴム栓をして蛇口をひねりお湯を出す。徐々に満たされてゆく浴槽に宇宙が広がってゆく。

 「きれいね。ねぇ、あなたはこの中に居るの?」

 つぶやいた言葉が狭いお風呂場で、こもった音となり反響する。湿った空気が息を詰まらせた。

 しばらくじっとしていた。下着姿で、手も足も投げ出して浴槽に寄りかかって待っている。湯がたっぷりと溜まってゆくのを、宇宙が膨らんでゆくのを。

 微細な光の粒を巻き込みながら、湯気がゆらゆらと水面を漂っている。私はお湯を止め、浴槽からワンピースを取り出した。

 宇宙色は落ちて、元の色に戻っていた。

 固まっていた節々がきしむのを感じながら、下着を脱いで、濡れたワンピースと一緒に洗濯機へ放り込む。

 重たく巻き付いていた数珠を洗面所のガラス台に置いた。無機質なもの同士が触れ合う、冷たい音が皮膚の裏をざわめかせた。その横に2本の歯ブラシが置いてある。青色の歯ブラシの毛先が広がっているのを見て、替えを用意しなくちゃと手を伸ばし、触れる前に気が付いた。

 もうその必要はないのだ。

 私が生活するうえで、もう歯ブラシは一本だけで十分で、誰かのために替えを買う心配もしなくていいのだ。一人だとこの部屋は広すぎるし、寝室にある大きな本棚の中身は全て彼の物だからどうにかしなくてはいけない。ベッドだってもう少し小さくしないと落ち着いて眠ることすらできないと思う。洗濯機も冷蔵庫もお風呂もテレビも一回り小さくても、私だけだったら十分に生きていける。これから私の生活はどんどん小さくなってゆくのだと思う。このまま消えてしまいそうなほどに。

 浴槽に溜まったあたたかな宇宙に足をつける。

 奥行のある宇宙と無数の星が私の身体を受け入れてくれる。肩まですっぽり宇宙に身を浸たす。

 ここ数日は黒いものばかり見ていた。黒いスカートに黒いスーツ。靴下、ネクタイ、髪飾り。靴も、訪れては去ってゆく人の目もすべてが闇の色だった。彼の枕元に添えられていた花の色なんて覚えていない。でも、薬草のような独特な芳香は今も鼻の奥に残っている。

 誰もが息をひそめて、悲しみが通り過ぎるのをじっと待っているだけのあの場所で、彼は星のように燃えて消えていった。白い骨と、あなたの片割れのような私だけを残して。

 「どこにも行かないでね」

 あの、最後の日々を過ごした病室で、ベッドの背もたれにもたれ座っていた彼に私は言ったのだった。

 自分が子供みたいなことを言っているのは分かっていた。でも止めれなかった。日を重ねるごとにか細くなってゆくこの生き物の鼓動が、どんな形であれ永遠に続けばいいのにと願わずには居られなかった。

 彼は一瞬驚いた顔をして、緩むように笑った。出会った頃と変わらない、どこか余裕のある顔だった。

 「きっと姿形は変わるかもしれない。でもそばに居るようにはするよ。星になったとしても会いに行くかもしれないな」

 窓から風が入ってきて、光もきらきら揺れて、彼は少し大きめのパジャマを着ていた。お見舞いでもらった、色で溢れた花や果物に囲まれて、清潔なモーフをゆったりとかけて、きれいなものの一部として彼はそこにひっそりと存在していた。

 彼はあの時私とした約束を守ろうとして、この星を見せたのかもしれない。この中に彼は居るのだ。

 浴槽には光が溢れている。

 電気をつけなくたって、星空はこんなにも明るい。

 一つの星が線を描くように滑っていった。その後を追うように、数えきれない星が流星群となって浴槽を流れてゆく。夢のような光景だった。

 涙があふれて、お湯に落ちた。

 またそれが星となって、宇宙の中を流れていった。

 きっとこの無数の星は私の涙なのだろうと、なぜかはっきりとそう思った。彼は意地悪で優しい人だから私の涙の数をきちんと数えてくれていたのだ。

 あぁ、今まで流した小さなしずくたちが、光を宿して流れてゆく。

 儚いと思う間もなく消えてゆく。

 星の流星群はしばらく続いた。

 たとえこれが私自身の作った幻覚だとしても、こんなに素敵なまぼろしはこの世のどこにもないと思う。あるとするならば、彼が行ってしまったどこか遠い場所。

 そこに行きたいと、あとを追いかけようと何度もそう思った。でも、最後。彼の肉体が焼かれてしまうほんの少し前、こっそり彼に口づけをした時、それは違うなという気持ちが沸き上がってきた。

 あの時、手で触れれるほど近くに彼の肉体はあったけれど、彼はどこにもいなかった。たとえ私がいま鼓動を止めても、決して彼と同じ場所には行けないような気がした。

 きちんと生きて、生きようとして、歯を磨いて、洗濯をして、ご飯を食べて、人に感謝をして、そういった些細なことをきちんとこなして、少しずつ命を燃やしつくさないと、彼と本当の意味でお別れになってしまうと思った。このまま全てを投げやったところで、私にはなんの未練もないけれど、同じ場所に行けて、そしてもう一度彼に会えるのならば、もう少しこの世にしがみつける。

 私は両手で星空を救い取り、顔を覆った。

 あたたなか宇宙の感触が、泣き疲れた私の目をじんわりと温める。

 次に目を開けると、宇宙はどこにもなかった。

 星空は消えて、電気をつけていない浴室でお湯に浸かっている私だけが居る。

 いつか私が星になる日まで、この幻をひと時も忘れない。

 空いた心の隙間に、あたたかな宇宙を抱いて私は生きてゆくから。

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