霧の中で

 ここは雨ばかり降る。

 水滴が落ちてきて、蒸発して、それが白いもやもやとなって、彼女の周りを覆っている。

 「フォグおいで」

 彼女が私の名前を呼ぶとき、私はすでに彼女の膝の上にきちんといる。それでも、時々不安になるのか、彼女は私の名前を呼ぶ。

 もうしばらく開かれていないカーテンを眺めながら、彼女はいつもぼうっとしている。薄い緑色のカーテンは、淡い光を透かし、彼女の素足を柔らかく照らしている。

 私は喉を鳴らしながら、彼女のお腹に頭を擦りつける。

 「あら、もうここに居たの」

 彼女は笑う。そして震える手で私の頭をゆっくりと撫でる。不規則なリズムで頭から背中を行き来する。流れてゆく手のひらの温かさを確認するたびに、私は安心してまた喉を鳴らす。彼女の躰の奥底に沁みついている母性が、いつも私のことをここちよくさせる。

 幸福なものばかりが溢れているこの瞬間に、私と彼女はどっぷりと浸かりながらお互いの体温だけを感じている。私はまた喉を鳴らし、彼女はゆっくりと瞼を閉じて規則正しい呼吸をする。私を撫でる彼女の手が動かなくなり、呼吸がより深くなった時、私はこっそりと彼女の膝から身を離す。

 ベッドから地面へ降りる。彼女の部屋の床は冷たく、他の部屋よりも埃っぽい。

 床から椅子へ、椅子からテーブルへ飛び移る。

 小さなテーブルには花瓶が一つあって、彼女のお気に入りの花が数本か飾ってあった。でも今はもう枯れてしまっている。縮れ朽ちている状態で嫌な臭いを醸し出し続けていた。手で倒してみると、中の水もすっかりとなくなっていた。花瓶は二、三回転がったあと、地面へ落ちて乾いた音を立てた。驚いて、彼女のそばへ駆け寄ったけれど、彼女はすっかり眠っていた。

 地面に落ちた花瓶を恐る恐る見に行くと、さっきと形が変わっていた。もしかしたら違う物だったのかもしれない。

 首をかしげていると、床を擦るような足音が近づいてきた。

 とっさにベットの下に身を隠す。

 「あっ花瓶」

 足音の主はやけに小声で言うと、ベッドの下をのぞき込んで「あんたの仕業でしょ。仕事増やさないでよね」と重たい舌打ちをした。私は身を小さくして、より影の深いところへ隠れた。

 狭い視野から、スリッパを履いた足がせわしなく動くのをじっと見ていた。花瓶だったものは、跡形もなく片づけられ、食器のこすれ合う音だけが聞こえる。彼女がさっきまで食べていたお昼ご飯を片付けているのだろう。

 緊張感のある静けさに自然とけが逆立った。

 「こら!どろぼう!!」

 つんざくような声は、彼女のものだった。暖かな空気は消え失せて、辺りに散らばっていた幸福たちはあっけなく死んだ。

 勢いよく躰を起こすとベッドに頭をぶつけてしまった。でも、そんなことよりも彼女のことの方が心配だった。

 急いで彼女に駆け寄り、お腹に身を寄せると胃が微かに痙攣していた。呼吸も荒く、どくどくと血液が身体を巡っている。目は血走っていた。

 食器をもったまま立っていたスリッパの女は、一瞬目を揺らがせたあと、彼女のことを鋭く睨んだ。唇は不自然なまでに震えていた。

 「おかあさん。冗談でも、そんなこと、いうのはやめて」

 スリッパの女は食器をテーブルに置きなおして、彼女に一歩近づいた。

 「いや!来ないで!どろぼう!!いやいや!」

 もうずいぶんと前から躰が上手に動かない彼女は、両手を精一杯動かして子供のように暴れ出す。

 「お願いだからもうやめて」

 スリッパの女は早口に言うと、唇をかみながらも丁寧にベッドを整えた。そして、食器を持つと、足早に部屋を出て行った。

 彼女はしばらくぶるぶると震えていた。ベッド脇にいつも置いている写真を爪が白くなるまで抱きしめながら、何かに耐えているようだった。私はその横で躰を丸めながら、彼女の中に落ち着きが戻ってくるのをのんびりと待つ。

 彼女は徐々に躰を起こして、またぼんやりとカーテンを眺めたりする。しばらく開けられていない薄い緑色のカーテンを西日が眩しく燃やしている。彼女は宝物にしている写真をベッド脇へ戻し、自分の手を何度も自分でさすった。

 過去を慈しみ過ぎた彼女は、とうに自分のことが分からなくなっているみたいだった。

 私はやってくる幸福たちを予感しながら、彼女の膝の上に座った。

 「フォグおいで」

 さっきとは真逆の、ゆったりとした声音で彼女が私の名前を呼ぶ。いつの間にかこの部屋は幸福たちで溢れていて、私はゴロゴロと喉を鳴らしながら彼女に躰を擦りつける。

 「あら、もうここに居たのね」

 彼女は笑って、私の背中を優しくなでる。穏やかな血液がめぐって、彼女の手はいつだって温かい。私はあくびをしながら、すっかりとくつろいでしまう。

 「あぁ、みんなどこに行ってしまったの」

 彼女が言うので、耳を傾けながら顔を上げた。彼女は写真を見つめている。

 「気づいたら手はこんなにもしわくちゃだし、子供たちも、お父さんも、誰も居ない。独りぼっちね」

 ほら、また。彼女の瞳から雨が降る。

 私は頭や背中でそれを受け止める。

 彼女がいつも慈しんでいる子供たちが成長して、そのうちの一人がスリッパの女になったのを彼女はずっと忘れてしまっている。昔は時々思い出せたのに、今は全く思い出せないみたいだった。彼女が何かを忘れる度に、誰かが傷ついて、彼女は混乱した。そして、幸福は死んで、また気づいた時にやって来た。

 その繰り返し。

 繰り返すほどに、彼女の瞳は雨ばかり降らすようになった。

 水滴が落ちてきて、蒸発して、それが白いもやもやとなって、彼女の周りを覆っている。

 最後に緑のカーテンが開いていた日、外は濃い霧で覆われていた。あの日からここはずっと霧で覆われたままなのかもしれない。

 彼女は霧の中を、不安に押しつぶされながら一人でたださ迷っている。

 いつの日か、彼女の中にある私の記憶が霧に覆われてしまうのだとしても、私が彼女のことを覚えている。決して忘れない。だから、私は彼女のそばで幸福たちを待っている。

 世界の隅の、最果ての、夢の終わりめいた小さな部屋で、私と彼女は終わりが来るのを待っている。

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コメント5件

雨の正体が切ないですね。幸福な記憶だけは残ればいいのに・・と思います。母は私のことを看護師さんと思ってさいごにお礼を言ってくれたのを思い出して、私のこの記憶も消えないように・・と思いました。
トーコさん、コメントありがとうございます!重暗い内容だったので不安だってのですが読んで下さりうれしいです!そうだったんですね。私の祖母も少し記憶が怪しくなってきていて、思い出したり忘れたりの狭間をさ迷っているのですが、祖母は独りぼっちで家に居るので何か心の支えになるようなものがあればなぁ、と私の頭の中で考えて出てきたのが猫のフォグなんです。ただの一つも言葉を交わさないでも、傍に居れる、居てくれる関係って良いですよねぇ。こればっかりは人間には難しい気がする・・・。
キジトラネコさん、コメントありがとうございます!!幸福な記憶だけ残って、幸福に終わりを迎えられたらどれだけいいのだろうと私も思います。そうだったんですね。たとえ相手が自分のことを忘れてしまったとしても、自分の記憶に残り続けている限り、それは何よりも綺麗な真実になるのだと思います。
しあわせのかけら ちりちり舞って霧のなか輝け #コメント自由律
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