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環境の異常さに気づくこと

自身が置かれている環境が異常だと気づくことは容易でない。

一方で、環境が違うことは、意外とすぐにわかるものでもある。
友人との会話、メディアから発信される「普通」、そこかしこに自身との違いに気づくきっかけはある。違いには、気づくのだ。でも、その違いは個人差、家庭差の範疇に収まるのか、その判断がむずかしい。
よそはよそうちはうちに集約されるのではないか。そんなのみんな我慢して生きているんだよ、そう思うべきものなのではないか。ただ自分が打たれ弱いだけなのではないか、もう少し頑張ってみないと。
そう考えて、たとえその環境が異常だったとしても、普通のグラデーションのうちの一つに過ぎないと誤認識する。
助けを求めるなど、そんな考えすらも浮かばない。ただ、人生とは息苦しいものである。と感じるだけ。

これを書いているわたしもまだ、この環境に異常と名付けることはできない。でも、苦しい、と思う瞬間がある。その感情にふたをしないように、感じていたい、しかしそれは、1種の拷問のようでもある。苦しさが麻痺するのを待った方が意外と楽なこともある。

…そういえば、なぜあの時(共依存時代)は苦しさではなく、快楽をも感じたのだろう。そうか、どれだけひどい仕打ちをされても、それはあの人と同じ土俵にたつための材料だったからなのか。苦しい環境もあなたと語り合うためなら、自分の武器になっていたのか。一瞬あの人を懐かしく感じたのは、会いたいわけじゃない。この環境のラベルが苦しさではなかったことに、救われていた部分もあったからだ。

でも。もう戻りたくは無い。だから、一人でこの環境のラベル付けを変える。
親の問題は親が抱えるもので、私がどうにかできるものでは無い。だから、この環境に苦しむ必要など、ない。

…とは言っても、そんなにすぐには変わらないから、少しづつ抜けさせてあげたい。

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