SNSに立ち上がる集合知に救われた話

父がモラハラをする人というのは、今は知っているのだが、他にもいろいろな方が書いたコラムなどを読んで思い当たる節がありすぎて、膝を打っている。

例えば、物事が父の望まない結果に終わってから、「おかしなことをしているなと思ってみていたんだ。どうしてお前はあの時……(数時間なじられる)」みたいなことは、たびたびあった。
いやいや、それ途中で助言してよ案件。
弁護士事務所の書いた、モラハラ野郎の言動ベスト10!みたいな記事に入っていた。あるあるだった。

ちゃぶ台こそひっくり返さないけれども、クリスマス、正月、誕生会etc.行事には危険がいっぱい。
子供はしょせん子供なので、うっかり心から楽しんでしまって、父の様子に対する注意がおろそかになると後で痛い目にあう。
しかし、彼は行事ごとはやりたがるのだ。
モラハラ野郎は、ハラスメントの機会を逃さない。
これもあるあるだった。
 
色々な人が書いた体験談を読むと、私の身に起こっていたことは、私だけに起こっていたことではないのだとわかる。

例えば、あちらでもこちらでも、モラハラをする人は、ムチャクチャ外面がいいらしい。
うちのお父さんが**なんだけど、と外に向かって訴えても、誰も信じてくれなかったのは、そういうことか、と納得がいった。
私は頭がおかしいのかと思っていたよ。
納得がいったし、気持ちが軽くなった。

患者の会、被害者の会なんかは、こういう気持ちが軽くなる働きがあるのだなあ、と思った。
今回の場合は会ではないけれど、ネットの集合知が生きる。

ある方が書かれたコラムに「これは私の父です!」と全世界に向かって叫びたくなるようなそっくり人間が登場していて、後で読むために保存しておけばよかった。
その方は、配偶者にモラハラを受けていて、職場結婚だったので引き続き同じ職場で働いている。
職場では普通にふるまえて、家ではハラスメント。
この人はハラスメントをしてもいいときとそうではないときの区別がついていて、切り替えをする理性も持っている、ということに気がついた筆者は、そこの理性に訴える作戦で、モラハラの認知をさせていく。

ああ、そうか、父はどうして他人にだけ優しいんだろうな、と悲しかったのだが、そういうことなのか。
私たちは、ハラスメントをしてもいい人間だ、と線引きされていたんだ。
 
幼稚な人間が、適齢期になれば結婚するのが普通だから家族を作って、家族を作れば子供がいるのが普通だから子供を作った。
子供が思い通りになるうちは愛玩し、そうではなくなったら自分はなんて不幸な人間なんだろうと嘆き、思い通りにできるところまでぶち壊した。

私の人生に起きたのは、たったそれだけのことだ。

大学に行かせてもらってよかったじゃない。
衣食住で不自由なくてよかったじゃない。
と言われるけれど、それは確かによかったけれど、自分を肯定できないと何を持っていても幸せにはなれないのだ。
いや、衣は結構不自由だったので、今になって爆発している。

彼は世間体のため、そうするのが普通だからなどの理由で私たち姉弟を高校・大学に行かせたけれど、「誰の金だと思ってるんだ」ももれなくついてきたけれど、私はそこで彼の支配下から抜け出して、自由に楽しく生きるきっかけを得てしまったので、皮肉なことである。
実際に自由に楽しくなるためにものすごく時間はかかったけれど。

世間的には、父のような人は、見た目は大人だし、経済力もそこそこあるし、最低限のコミュニケーション能力もあるので、家族の形をしていてもすでに粉々である、ということは外からはわからない。

もちろん命を落とすような虐待、命はあってももしかしたら一生トラウマと闘わなければならない虐待、愛はあってもどうにもならない貧困、それどころか、難民の人々、民族浄化の嵐etc.に比べればマシという考え方もあるけれども、苦しみにライカ犬方式(宇宙に送られるライカ犬に比べれば自分はマシ、というあれ)を適用してはならない。

父が自分は「モラルハラスメント」をはたらいている、それは人間にやってはいけないことである、ということを知らない可能性は高い。
父とは家族とはそういうものだ、と思っている気配がある。
認知がゆがんでいる。

それについて私は話すことがあるだろうか。
そのとき話したい、と思うときがくれば話すかもしれない。
大原則、過去と他人は変えられない。

私はなんとか、人の親切を少しずつ渡り歩いて、生きて大人になることができた。
恩返しというわけではないけれど、少しだけ、あちこちでおせっかいを焼いている、できる範囲で。

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