『隻眼の邪法師』 第12章の5

<第12章:修羅の洞窟 その5>

「ぎぁあぁああぁーーーーっ!!」

 陽光をまともに浴びるがごとき苦痛に巨大な拳の中でのけぞり痙攣するリアの脳裏でイメージがひび割れ、唱え返した呪文を受け地面をのたうつ老魔導師が断崖から転落する姿が砕け散る! がくりと落ちたその顔にはずみでほどけた乱れ髪がふりかかる。呪文に抵抗してなお彼を襲ったその苦悶の凄まじさは、疲弊したリアの精神にとってあまりにも巨大な剛打だった。一撃で精神の死の瀬戸際に吹き飛ばされかけた魔少女の意識が、だが聞こえてきた心の声にからくも繋ぎ止められる。

>……なんだ? こいつ……<

 その思念に滲む猜疑と警戒は、リアにとって物心ついた頃から何度も感じてきたものだった。体験した回数だけでいえばとうになじみ深いものになっていてよかったはずのそれは、だがそこに底流する疑念や怯え、嫌悪めいた感情をも幼女だったリアにさえ伝えずにおかず、母親と早く死に別れた自分がその悲しみや疎外感になかなか慣れることができなかったのを彼女は思い出した。同胞を愛し守ることの尊さを幼少期から叩き込まれるアルデガンの環境にあってそれがあまりにもつらく悲しいものだったから、いつしか自分は他人の心を感じるそんな力を自ら振るうのを忌避するようになっていったことも。そして気づいた。それがこの場においてさえ、望みもしなかったそんな力があるのを隠すことに繋がっていたのだと。

 こんな力をこの場で使うつもりがなかったのは確かだったし、できればこの男には自らの力で本当の自分に気づいてほしいとも願っていた。かくも無惨に運命を歪められたこの男が自分の姿を見失ったまま死んでゆくのは間違っているとしか思えず、だからこそ超常の力を振るうことなくひたすら言葉に頼って訴え続けてきたはずだった。相手の心を力づくでこじ開けたりしたくないと思っていたはずだった。

 けれどもリアは苦い思いと共に自覚した。そういう判断だけがそんな振る舞いを自分に強いていたのではなく、幼き日々に刻み付けられた思いもまた深いところで自分の行いを規定していたのだと。そんな自分が相手に重なって見えた。それは不死の肉体に閉じこめられた娘の心をいっそう悲しませた。

 もはや人の身ではなくなってしまった自分ですら、そんな遠い記憶に縛られている。そう思うとたまらなかった。毒された血に蝕まれた身を削りながら抗ってきた運命に屈するばかりとなった彼が自らの思いから、真の願いからさえ目をそむけたまま終わるのが。

 だからとうとう口にした。絶え絶えの苦しい息の下から。

「……わかって……しまったの、でしょう……?」

「……なにを、いってる?」

「ごまかさ、ないで……っ」

 魔性の娘は言葉を継いだ。そう返してきた彼の声を切れ切れにさせているのが瀕死の身の苦しみだけではなく、苛立ちとも怒りとも見まがうものへと形を変えたあの猜疑や怯えでもあることを感じつつ。

「わかって、いるはずよ。私がなぜ、悲鳴をあげたか。あなたは誰より、知っているもの。そのとき自分が、なにを思い、浮かべて、いたか」

 ようよう紡いだ言葉に応えはなかった。けれど感じた。瀕死の体に繋がれた心の動揺を。いつしか自分の中で禁忌となっていたものを前に、不死の身に閉ざされた心が躊躇う。だが一瞬のその逡巡を振り捨てリアは告げた。その一瞬にようやく整えることができた声で。

「私にはわかるの。あなたの全てが。遠い記憶も、本当の願いもなにもかも」

「嘘……だ」

 絞り出すようなその声は、だが震えを、動揺を押し隠すこともできぬものだった。にもかかわらず、伝わってくるのは否定の、拒絶の意志ばかりだった。もはや残された時間が尽きかけているこの期に及び、彼はあくまで歪められた自我にすがることで己を支えることをやめようとしないのだ。望まぬ形の生を貫いたまま末期を迎えようとするばかりなのだ。

 いくら相手を感じることができても、それだけではどうにもならない。無力感に追い打ちをかけられた悲しみが涙となって溢れ出し、乱れ髪に隠れた目から頬を伝った。魔法陣の放つ赤い光をそれが受け、血のしずくのようにしたたり落ちた瞬間、彼の胸が抉られるのを感じた。思い出せなくなった妹の面影に呪縛されたその心が、乱れ髪に覆われたことでかえって似てきたこの顔のせいですがる自我の歪みとの矛盾に軋んでいるのだ。それでも彼はそのことに目を向けようとしない。あたかも無惨な傷跡を留めた素顔を覆う己が仮面から目をそらし続けるようにして。とうとうリアは哀願した。涙で潤むのを抑えられなくなった声で。

「もうやめて、自分から目をそらすのは。背を向けないで、大切なものから。いいかげん気づいてよ。こんな私にまで、あなたは妹さんの面影を重ねずにいられない人なんだって……」

「……世迷い言をぬかすな。おまえに俺の何がわかる!」

 相手が言い返した。ゆらぐ心を必死に立て直しながら。

「俺の家族はみな死んだ。黒髪の民の手にかかって。そして俺はただ一人、地獄のような生を生きてきた。だが水源の村は滅ぼした。奴も俺が殺してやった。だから俺は生きるんだ。俺の人生を取り戻すために……っ」

 いいつのる言葉を発作に断たれ、身を折る男。だがいまや血の匂いよりその苦しみの方がはるかに強く、魔性の身に閉ざされた心に伝わってくるばかりだった。あの最後の恐ろしい戦いに彼は勝った。仇敵が積み上げた死の呪文を秘められた真の名をよすがに辛くもしのぎ、読み取ったイルジーという相手の名を織り込み唱え返した呪文は遂に悪魔のごとき魔道師を倒した。だが受けた術は歳月と共にじわじわとこの身を毒し、気力だけで持ち応えてきた死神との戦いももはや終焉を迎えるばかり。やっとのことで掴みかけた吸血鬼の不死の秘密も、どれほど苦しめても頑として口を割らない小娘に阻まれたままどうしても手に入らない。

 いったいどれだけ時が過ぎた? 俺の命はどこまで縮んだ? だが、俺は、俺の胸は……。

 なぜこれほど抉られるのだ? 死に瀕したこの身より深々と。村のやつらを何人犠牲にしようと動じなかったはずのこの俺が、こんなわけのわからぬ小娘になぜ揺らぐ?

 もどかしさによじれるばかりの心をまともに抉られ、とうとうリアは叫んだ。

「ほら、あなたは取り戻すとしかいえないじゃない! 奪われたものを忘れられなくて!」

「いいかげんにしろ! 俺はもう家族のことなど覚えていない。顔すら思い出せないのだぞ。そんなものに縛られているだと? 馬鹿をいうなあっ」

「あなたこそいいかげんにして! なにも、なにも忘れてなんかいないくせに!」

 泣き叫ぶ魔少女の脳裏に、闇の森で出会ったあの乙女の姿が、時の流れに置き去りにされ実体を無くしたようだった心が浮かびあがった。

「あの人はなんの支えもなく、あんなにも長く闇の中をさまよい続けていたわ。あれが名前も記憶も忘れるということよ。

 あなたは無くしてなんかいないじゃない。そうしないと生きていけなかったから、本当の自分もろとも、名前もろともただ押し込めてきただけじゃない。馬車から聞こえたメリーの泣き声まで忘れたっていうの? 嘘つき!」

「な……っ」

 絶句し硬直する相手に、リアはもはや抑えられぬ感情を真っ向から叩きつける!

「メリーはまだ小さくて、あなたをヨシーとしか呼べなかった。ポールをあやしたあんな石まで目に焼きつけているじゃない! ヨシュア! もう自分にまで嘘なんかつかないで!」

 のけぞった背が岩にぶつかり、衝撃で仮面が落ちた。抉られた無残な左目の横で、残された右目が驚愕に見開かれていた。

 やがてその右目に怯えが滲み、傷だらけの顔が怒りに歪んだ。瞬間、背を岩から引き剥がしつつ隻眼の邪法師は絶叫する!

「触れるな! 俺に触れるな! 失せろ化け物ぉおっ!」

 指の欠けた腕が一旋するや爆発したように赤い光を吹き上げる魔法陣! 目が眩み悲鳴をあげたリアを石の剛腕が光の柱の中へ叩き込む!


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