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【映画】正欲/岸善幸


「なんか生きづらそうですね」映画を観終わったあと、昔言われた言葉をふと思い出した。誰から言われたのか、どういういきさつだったのかは忘れてしまったけれど、うちに抱えたわだかまる気持ちを吐露した先に投げかけられた言葉だったと思う。大なり小なり”生きづらさ”は誰しも抱えていると思うのだけれど、社会に合わせて仕方がないとやり過ごすか、ルサンチマンの如く抱えたまま生きていくかでその度合いは変わってくる。とはいえ、僕の場合にはマイノリティとは別の動機であって、社会から圧力や黙殺されている立場とは大きく異なる。同じ言葉でも、社会的な立場の”生きづらさ”に比べれば他愛もないものだと思う。だからこそ社会的な立場の”生きづらさ”についても、至らないかもしれないが常々考えさせられる。
かつて00年代にマイノリティと呼ばれていたものが、10年代半ばくらいからLGBTQというビッグワードに置き換わった印象が強い。置き換わったというと語弊はあるが、そこに鎮座していた場所に置き換わったという印象がある。かつてマイノリティという言葉が大枠で意味していたものは、ジェンダー、人種、身体の障害など今思えばステレオタイプなイメージが雑破にまとめられていたと記憶している。何年か前に「Glee」を観た時にその頃の事を思い出した。細分化された末にその中でも一番おきなトピックが表面化したという事でもあると思う。マイノリティへの解像度が上がると共に、問題の輪郭がくっきりと境界付けられ、それぞれがセグメントされていく。性認識の圧力の問題は性認識の圧力の問題へ、人種差別問題は人種差別問題へ。しかしセグメントされたがために、以前は雑破にまとめられた枠の中に収められた問題や存在がこぼれ落ちている様にも感じられる。マイノリティの中のマジョリティという問題は本作の原作でも重要な立ち位置を示している。結局のところマスの関心や正義は、数の上でしか成り得ないという事でしかない側面も孕んでいる。言葉を与えられていない存在は無きものとして扱われ、マスが関心を引き入れるか否かは関心の度合いが高まるタイミングが全てであったりもする。
それは正しいものと判断されて広まれば良い方で、悪評の中で紛れてしまえば悪として扱われる。勧善懲悪なさじ加減にうんざりさせられる事も多い。簡単に善悪を判断しすぎではないか?と常に疑問に思う。

本作で極端な善を問うのが寺井という存在で、法の下で裁かれるか否かでの判断しか持ち合わせない。ただ彼自身も家庭の問題を抱えている人物でもある。物語は無情にも彼にもメスを入れる。登校拒否を続け、ユーチューバーへの憧れを募らせる息子と犯罪者を同一上で語る様は、いかに彼の中で人権意識が抜け落ちているのかがわかる。この物語は秩序と倫理について問う物語とも言える。善悪の基準は法の下にあり、個人の尊厳は二の次というのが全編にわたって記される。世間で言うところの正しいレールの上を歩むことが全てであり、脱線することは許されない。脱線した息子がいかにレールの上に戻るかしか考えていない。最終的には彼自身が家族の間柄を脱線していく皮肉が、この物語の大きな伏線となっている。

タイトルの正欲が性欲とかけているように、個々人の性癖と社会の秩序と倫理に乗っかっている。いわゆるマイノリティがLGBTQなどマスで広まった価値観から外れた人々の姿ではあるが、マイノリティの中のマイノリティは社会の立ち位置は見出せない。理解できない=異常者という図式は、あらゆる場所で露見されるが、だからこそ表舞台に立たないという選択肢を彼らは
選ぶ。しかしながらその選択が社会的制裁に結びつく不条理が、辛いところである。幼児性愛と断定されたら、冤罪であってもそれに紐づく動画や画像を所持しているだけで罪に裁かれるという不条理が大きなしこりとして残る。幼児性愛自体は子供を守る観点から最も重要な観点であるが、一方でジャニーズ問題や、古くからある未成年への買春に寛容な社会の歪みも露呈してくる。裁かれるものが絶対悪であるという尺度への懐疑は、この物語の本質ではないだろうか?

救いなのは、疑惑をかけられた佳道と夏月の関係である。偽装結婚でありながら、互いの性欲を深く理解した関係であることで信頼関係が築けている事が互いに「いなくならないからって伝えてください」という言葉から存在価値を高めている。異性同士でセックスを通じなくても、掛け替えのない存在として存在している。こういった関係は盲目的に肉体関係を気づくよりも関係は深い。しかし一般社会では、安直な肉体関係の方が歓迎される。何故かと言えば理解しやすいからである。男女が集えば性的な関係が生まれると信じて疑わない人がマジョリティであろう。性器を擦り合うのが人間関係のすべて出ないことを理解する人は、意外と少ない。夏月の職場にいた那須などはまさにその典型とも言える。セックスをして子供を設けることも大切ではあるが、アセクシャルな人々の観念も受け入れるかどうかの社会理念への疑問が問われる。

映画を観た後、何か違和感というか引っかかるものを感じたので原作を手に取ってみた。小説のヴィジュアライズとしては申し分無いと思うし、冒頭の部屋が水で満ちていくシーンは映画ならではのもの。特にこのシーンは、原作でも具体的に描いていない部分をはっきりと描いていて、まさに水との交わり合いで体が満ち足りていく様子が見どころだった。ただ気になるのが、水に対する性的興奮が性器が誘うオーガズムなのか?という点がどうも引っかかる。人間同士のセックスに対してはアセクシャルな感覚を持っているのは、会話や行動からは分かる。水が誘引する性欲をいわゆる性器を使った自慰行為で、満たすものなのかというのは原作でもはっきりとは書かれていなかったように思う。まあこの辺りがはっきりしたところで、変わりはないのかもしれないけれど。
ヴィジュアライズという点では、学校裏の水道や公園での描写など美しい映像で描かれていて、映画的なその部分も良かった。
一方で気になったのは、物語全体の流れだった。中盤で夏月たちが横浜に引っ越した辺りから、どうも話の繋がりがちぐはぐで突拍子もない展開に思えた。特に学校のホールで八重子と大也が対峙するシーンで、場所は違えど原作通りの台詞回しではあるが、流れから考えると突然フルスロットルで自分の考えを捲し立てているように感じられて違和感がある。原作でも突然な描写ではあるが、こちらはそれまでの経緯が丁寧に描かれていて、そこに至る流れは俯瞰できる。映画は登場人物たちの心の機微を捉えきれていないと感じた。とはいえ「あってはならない感情なんて、この世にない。それはつまり、いてはいけない人なんて、この世にいないことだ」というセリフをちゃんと劇中に収めたことは素晴らしいと思う。

映画に感銘を受けたならぜひ原作にも触れてほしい。社会のあり方を問う作品だと思うので。

音楽は扇状的まではいたらないまでも、ちょっと過剰というかうるさい印象があった。もう少し抑えた表現だったら鑑賞後感も良い感じだったのにな。Vaundyの主題歌も既視感がある曲で、ちょっと過剰さが際立つ。


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