見出し画像

北町南風 短歌評

 北町南風は現在オンライン歌会の場である「うたの日」を中心に作品を発表している。また自らもTwitterのスペース機能による「北町南風のオールタンカニッポン」を開催するなど、インターネット上で積極的に活動を続けている歌人である。この「北町南風のオールタンカニッポン」にゲストとして誘われたことをきっかけに、彼の短歌を読む機会を得た。いくつか評を記しておきたい。

◆喩の歌◆

防波堤開きっぱなしの小説は夏を彩るウミネコのよう
取れかけたボタンを修繕するやうにいつもの海をゆく定期船
星空の縮図のやうなふりかけがご飯の上で輝く深夜
半熟の黄身を授かる目玉焼きに夜明けを写すみずうみがある

 視覚的な喩えの歌。1首目は開いた本の左右のページの弧をウミネコに見立て、2首目では定期船が日々が海面に描く波を修繕の糸と見立てた。爽やかな印象を残す歌である。
 3首目では、もう少し複雑な心象が描かれている。深夜に帰宅してそそくさとふりかけで済ます食事。「縮図」という言葉からは、そんな疲労のにじむ作中主体の様子を感じつつ、しかしそのふりかけが「輝」いていることから、なにかしら充実感のある一日だったのであろうという想像もできる。
 4首目。この歌の肝は「授かる」という言葉にある。この言葉を用いたことで「黄身」が神々しい賜りものに変容した。この変容が、下句に描かれた喩である「みずうみ」の神秘的な美しさを引き出している。

転調がしたいのだろう 風鈴に何度も触れる風を見ている
ヴィヴァルディの春を体現するように一段飛ばしでゆく歩道橋
夏は夜 誰かが捨てた足跡をこっそり拾うようにくる波

 こちらは動きのある対象を詠んだ歌。風鈴を繰り返し鳴らす風の動きに「転調がしたい」という意思を読み取る1首目、2首目は、学生時代の音楽鑑賞の定番曲であるヴィヴァルディの「春」に、その曲を授業で聴いた(訊かされた!?)であろう学生たちの、歩道橋を一段飛ばしに駆ける若々しい足取りを重ねた。3首目は、こちらも古文の学習の定番「枕草子」の引用を初句とし、寄せ返す波に意識をもたせることで、抒情性を醸し出している。

タイトルのない毎日にタイトルを与えるような一行日記
牛丼の小盛りを食べ空腹というスパイスを味わう午後だ
リニューアルオープンをする店みたい名字が変わる今日のわたしは
レジ袋へ風を誘ってその中でぼくは一気に風をころした

 これらは、喩えというよりは認識の仕方が面白味となっている短歌である。1首目、日々の記録である日記も1行のみであれば、なるほどタイトルといえよう。2首目、牛丼を小盛りとしたのは予算の都合か時間のなさか、満腹感にほどとおい感覚を「空腹というスパイス」とユーモラスに主体は捉える。3首目、主体自身は変わらなくても名前が変わるという事実は重い。その重さを「リニューアルオープン」として前向きにとらえる主体に明るさがある。
 4首目は少々不穏な歌である。おそらく作中主体が広げたレジ袋に風が吹きこんだのであろう。風とは空気の流れである以上、底のある袋に吹きこめば流れは止まる。しかし主体はそれを、自らが「誘って」「ころした」能動的な行為であると歌う。主体自らの負の側面を提示するような歌に、読み手を動揺させ瞠目させるインパクトがある。

ゲーセンもジャスコも更地になったけどきらいなままの君がいる町
今日もまた規則正しく二分半前の時刻を知らせる時計

 喩ではないが、ありのままの日常を、切り取り方によって異化した歌である。馴染んだものがなくなっていく中できらいな「君」だけが変わらずにいる町。遅れているのではなく「規則正しく二分半前の時刻」を知らせ続ける時計。これらには、読み手に世界の見え方を提示する抒情性がある。

◆青春◆

学校で有馬記念が始まった 十食のみのランチ求めて
初キスをしたのであろう 弟の半音高いただいまの声
はじめての君の横顔 逆側もどうか笑顔でありますように
「夏休みはじめました」の広告を貼り出すように水着を買った
ランウェイのモデルみたいに新しいウェアを部活で披露するきみ
視力検査しているようなキャプテンになったばかりの君が出す指示

 学食のランチ争奪戦を競馬に例えたユーモラスな1首目。2首目は作中主体が兄/姉のどちらかは描かれていないが、そのような些細な変化に気づく主体と弟との関係はどのようなものか、読み手にあれこれ想像させる楽しさがある。3首目は、席替えかデートか。はじめて作中主体が「君」の隣に並んだ場面と思われる。右側の横顔と左側の横顔で表情が違うわけはないのだが、そんな不安をもつくらい「君」との関係がまだ始まったばかりの主体なのだろうか。思春期の心の揺らぎ、「君」との関係を深めていきたいという願いを、具体的な状況でうまく言い表している。4首目、「広告」を貼り出すという比喩が、夏休みを迎えるわくわく感を鮮やかに伝え、それを受ける行為を「水着を買」う、とした結句の選択もよい。5首目、6首目は部活のシーン。これらの歌の「きみ・君」は仲間だろう。新しいウェアを誇らしげに見せたり、新キャプテンとしてやや固くなりながら指示をだしたりする仲間を生き生きと描写している。

美化された思い出だけで埋められる中学校の卒業アルバム
どこにでも行けないドアだ 僕たちが毎日開けるたびに教室

 一方学校の集団性の負の側面に焦点をあてて詠まれたのがこちらの2首。卒業アルバムの明るさと実際の学校生活のギャップに苦々しさを感じた人は多いだろうし、教室以外のどこかへ行きたくなった経験もあるだろう。そんな違和感や閉塞感を、これらの歌は端的に詠んでいる。

◆人◆

恋人を抱(だ)く練習をしています 理科室のガイコツを相手に
できるなら忘れてほしい コンビニでグラビア雑誌読んでた僕を
私だと気づいてほしくてゆるキャラの中で激しいダンスを踊る
へんてこな和訳のように本当にわたしは恋に落ちた本当に

 瑞々しい比喩や感性で歌を詠む北町であるが、可笑しみのある人物詠もうまい。ここでは作中主体がおかしな人物である4首を挙げる。奇行に走り、へんてこな語順で恋を自覚しながら、どの歌の主体も生真面目であり、それが魅力となっている。


◆「白から赤」の歌・「嫌い」の歌◆

 前述の「レジ袋…」の歌、また、

美しい孤独死だろう 昨日まで雪だるまとして生きていた雪
さわやかな吐息へ生まれ変わりだすミンティアはいま孤独死を遂げ


など、「白=死」のイメージが描かれたものが多い(レジ袋の色は明記されていないが一般的に白が多いし、ミンティアも味によってカラーのものもあるが、基本は白いタブレット菓子だ)。これは、白が、冬や死装束を象徴する色であるから、自然な発想であろう。しかし北町の歌は、この「白」が「赤」に変容するとき、死や孤独からの再生というイメージを纏う。

白地図に世界を埋めていくように夕日の紅があなたを照らす

 これは北町の高校時代の歌である。上句と下句を「ように」で結んではいるが、上句では世界が白地図に「埋め」られるのに対し、下句の「あなた」は夕日に照らしだされる。また同じく夕刻の光景である、

白シャツを染める夕焼け この街に染まりきれない僕であっても

は、街に「染まりきれない」白シャツの作中主体を、夕焼けが街ごと同じ色に変えていく。

六匹の赤毛のうさぎの出産を終えた林檎のしずかなさいご

 この歌は、林檎の死を描いているが、その死は「赤毛のうさぎ」という新たな生命をもたらす世代替わりとして歌われている。
 また、「嫌い/きらい」という言葉を用いた歌に存在感を感じた。北町が発表している歌で「嫌い/きらい」という言葉が用いられているのは、前述の「ゲーセンも…」の歌を含めて4首あったが、筆者はそのうち3首を、取り上げたい歌として選んでいた。

「ヤバい」しか言わない君の食レポが嫌いになったきっかけでした
小説の目次みたいなこれからを語りはじめる君が嫌いだ

 食や聞き手を大切にしない「ヤバい」の一語で済ませようとする「君」の態度、章題だけで中身のない「小説の目次」のような未来への話、など嫌いな対象の明確さが魅力の歌であった。


◆初キスの韻◆

 初キスの練習として湯船へと写るわたしとキスしています

 「は・つ・き・す」は2音目と4音目がu音の脚韻を踏む(ちなみにu音の口形はキスと同じ形であり、発音と身体の動きが一致する面白い単語だ。「うたの日」で検索してみると、2022年3月26日現在でこの単語を含む短歌は36首。詠まれることの少ない言葉と言えよう)。引用歌で北町はこの韻を捉え、2句以降でも「れ・ん・しゅう」(として)「・ね」(へと)「」とu音の単語を畳みかける。後半には、i音を「わ・た・・と・・す/・て・・ま・す」と、1音置きに配置するとともに、「/」の前後で2つに区切ると、u音の「す」で脚韻を踏んだ2つのフレーズが現れる。音韻の仕掛けをふんだんに盛り込んだ歌なのだ。
 この歌を読むとき、そこまで音韻を意識しなくても、「なんとなく口ずさみやすい」という印象をもつ読み手は多いのではないか。このような「音」に対する感性が魅力の一首である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?