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喫茶ひとりじかんはコミュニティカフェではない。

喫茶「ひとりじかん」はコミュニティカフェではない。

ところで、コミュニティカフェとはなにか。コミュニティカフェとは「通常のカフェや喫茶店とは異なり、利用者同士が交流したり、情報交換したり、〈つながり〉を作ったりすることを大切にする場所」である(田所承己「コミュニティカフェとモビリティーー地域空間における〈つながり〉の変容」『〈つながる/つながらない〉の社会学』所収)。つまり、そこでは〈つながる〉ことこそが本題であって、そのため「『カフェ』であることは必ずしも必要ではない」という(前掲書)。

主宰者も参加者も、コミュニティカフェでは〈つながる〉ことを目的としている。地縁も、血縁や社縁といった人間関係も希薄化する一方の現代社会にあって、それはとても大きな役割を担っていると言っていいだろう。高齢者よりも、「社会的孤立リスク」という点では団塊ジュニア世代やゆとり世代の方がよりいっそう深刻であると指摘する向きもあるくらいだ、今後ますますその役割は大きくなってゆくことだろう。

しかし一方で、僕らはこんな素朴な疑問を持つ。

そもそも「社会的孤立リスク」を抱えたような人であればあるほど、コミュニティカフェには行かないのでは?

なぜなら、みずからすすんで〈つながる〉ことを目的とした場所に行くような人は、ふつうに考えて「孤立」しないからである。

最初に書いたとおり、僕らが運営する「喫茶ひとりじかん」といわゆるコミュニティカフェとの違いはそこにある。「ひとりじかん」という、〈つながる〉の正反対をタイトルに冠していることからも明らかなように、つながってもつながらなくてもよい場所、それが「喫茶ひとりじかん」である。

もちろん、まったく違うかといえばそんなことはない。最終的に〈つながる〉ことをめざしているという点においては変わらない。ただ、積極的につなごうとはしないだけである。世の中には、ひとりでいる時間を好む人もいる。また、社交的な人だって、たまには静かに過ごしたい時もあるだろう。僕らはそういった人たちのために、ひとりでも居られる場所と時間を提供する。とりわけ、誰かの気配を感じながらもひとりで過ごせるということを大切にする。なぜなら、

ひとりの時間を豊かに過ごせる人間は強い

からである。たとえ夫婦だって、片方に先立たれば否が応でもひとりになる。体調に自信が持てなくなれば、親友がいても兄弟がいてもそうそう会うわけにもいかなくなる。そうなると、いちばん弱いのは〈つながる〉依存の人である。

週に一度でも、場合によっては月に一度でもいい。なんとなく趣味でも持ち寄って、ひとりコーヒー片手に過ごせる場所があってもいい。それが僕らの「喫茶ひとりじかん」である。もちろん、そこでは趣味を通じて誰かと知り合ったり、世間話を通じて誰かと〈つながる〉ことも全然OKである。

そしてそのときに威力を発揮するのが、全体の気配を読み、場を整える「カフェの接客力」なのである。

つながりたい人にはお相手をするが、つながりたくない人はそっとしておく。もしも、つながりたいけれどきっかけがつかめないという人がいれば、さりげなく助け舟を出すといった具合。

つながる/つながらないは二の次でいい。まずは、居られること。

コミュニティカフェに敷居の高さを感じてしまう人たちにこそ開かれた場所、それが「喫茶ひとりじかん」なのだ。

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