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ピン留めしておきたい3つのモノコト

森を見て木も見る

日曜日の早朝、いつも使っているバス停でひとり途方に暮れていた。乗るつもりだったバスが、いくら探しても時刻表に見当たらないのだ。うっかり曜日を勘違いしたらしい。しかも、悪いことに次のバスまではまだ20分以上もある。強い北風の中、じっと立ちすくんでいるなんて最悪だ。それに、だいたいそれでは間に合わない。

仕方がない、歩くか。ふつう、ひとはそんなときタクシーを捜すのかもしれないが、あいにくタクシーに乗る習慣がないせいで1ミリも思いつかない。それに、自分にとっての徒歩20分強は余裕で徒歩範囲だ。仕事前に無駄な体力を浪費するのはあまり気乗りしないが。

腹を括って、スマホの地図をたよりに歩き出す。ちょっと急いで、準急列車くらいのペースで。日ごろバスの車窓に流れる見慣れた風景も、歩く速度と目線の高さが変わるだけでこんなにも別の道のように感じられるものかと少々びっくりする。

手入れの行き届いた民家の庭先。ありきたりの、だがネーミングばかりやたらと主張してくるアパート。みずみずしい生花が供えられた道端の古い道祖神。何度も通り過ぎながらけっして目には入っていなかったものが、次から次に目に飛び込んでくる。それはたとえるなら、静止画が突如として動き出したかのようだ。

ところで、「木を見て森を見ず」という喩えがある。辞書によれば「小さいことに心を奪われて、全体を見通さないこと」とある。視野の狭さ、偏狭さを戒める喩えとして、たいがい否定的な意味合いで使われる。

けれども、その一方でより気に留めねばならないのは「森を見て木を見ず」ということだという気もする。ぼんやりとした全体像だけで、すっかりわかった気になってしまうこと。見ているようでじつは何も見えていない。そんなことが、慌ただしい日常の中ではむしろ常態化している。

たとえば、日常を離れて、生活のスピードと目線を変えて細やかなパーツのひとつひとつにいちいち反応すること。そして、そのことを通して自分自身の「生」を取り戻すのは“僕らが旅に出る理由”のひとつだったりしないか。曇ったレンズを柔らかい布で磨いたように、視界がよりクリアに、かつヴィヴィッドに感じられるのがなにより嬉しい。その意味で、旅とは意識的に「木を見る」ことだと言ってもいい。

すくなくとも、こと自分にかんして言えば木を見たいし森も見たい。欲張りだろうか? そのために、たしかに旅はもっとも手軽で効果的にはちがいないが、コツさえ掌中に収めれば手軽にモードをON/OFFできそうな気もする。

見慣れたものを見知らぬもののように扱うのが「哲学」であると言ったのはウィリアム・ジェイムズだが、見慣れた風景を見知らぬもののように変えてしまうという点で、「歩くこと」もまたとても哲学的である。

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