見出し画像

(2024:その05) 母

嫁と姑の同居は色々と難しい問題だと思います。
我が家の事を書くのも赤裸々ではありますが、治め方の参考になればと敢えてお話をした神殿講話の原稿です。

以下神殿講話原稿です。
************************************************
(2024:その05)
 
本日は、についてのお話をしたいと思います。(かしわ手)
 
私の母は、天理教信者の家庭に育ち、高校を卒業後に1年程度弁護士事務所で事務員として働いておりましたが、20歳の時に親同士の話し合いで、私の父の『嫁』として私の実家の教会に嫁いできました。
祖父は二度結婚しております。
祖父の最初の妻の子が私の父の男兄弟3名です。最初の妻は肺病で33歳の若さで亡くなっています。
その後祖父は再婚し、父の腹違いの兄弟姉妹が4名おります。
その後妻である義理の祖母の姪にあたるのが私の母です。
ですので、戸籍上は父と母はいとこ同士ですが、血の繋がりはありません。
さて、天理教の一般信者の家庭から天理教教会後継者の嫁として嫁いできた母ですが、私から見た母は気が強い人です。
私が小さい時には、教会は母の義理の兄弟4人を含めた9人家族でした。また、当時は住み込みさんも数人いるような大所帯の教会でした。
また、父はアルコール依存症でしたので、ある時期はずっと酒を飲んで寝込んでいる状態でしたので、母は肩身が狭かったと思います。
そのような状態でも、気の強い母でしたので、私は小さいながらも母には敵も多かったように記憶しています。
また、私が生まれた時には亡くなっていた祖父の信仰は理も重んじていたように聞きますが、おつくし(お供え)が信仰の主であったようです。祖父は会社も経営しておりましたが、その利益の殆どは自分の手元に残すわけでもなく、困っている信者さんに使うことも多かったようですが、上級教会へのお供えに殆ど全てをつぎ込んでいたと聞いています。そういった信仰を祖父が亡くなった後に教会長を継いだ後妻の祖母も継承しておりましたので、自教会にはお金はほとんどなく、全て徳積のためにと上級教会にお供えをしておりました。
この為、姉と私の二人の子供がいる父と母に頂くお与えは必要最小限で、私は両親からお小遣いなど貰ったこともなく、おもちゃや洋服や文房具なども買ってもらった記憶も殆どありません。
自分なりに我慢をして育ったと思っていますが、母からしてみれば、我が子にお菓子一つも買ってあげられないのはいくら信仰の為とはいえ、親として不憫な思いをしていたのではないかと思います。
また、気の強い母は、同居していた祖母や兄弟(血の繋がった従兄)とも軋轢が多く、小さいながらになんでそんなにもめるかなぁと思っていました。
そんな母ではありますが、やはり我が子である私にはとても優しく接してくれました。
私は子供ながらに、自分が真面目にいい子でいないと、それを理由にまた母や父が責められるという思いもあったと思いますが、非常にまじめないい子を演じていたと思います。
ただ、気が強い母の性格を考えると、将来自分が結婚して妻ができた時には上手くやっていけないだろうなという思いもあり、スープの冷めない距離感が必要ではないかとも思っていました。
 
私は最初の妻とは就職2年目の6月に結婚しました。
その妻は気が強い方でもありましたが、保母をしておりましたので優しい方でもありました。
彼女には修養科には行ってもらいましたが、私達は実家の教会から遠く離れた会社の社宅に住んでおりましたので、妻と母が会うのは盆と正月くらいで適度な距離感でしたのであまり問題はありませんでした。

二度目の妻は、母以上に気が強く、天理教の3日講習会(1)には行ってもらいましたが、そこで天理教が嫌いになり、二度目の妻は盆正月でも私の実家には殆ど寄り付きませんでしたので、母とは全く接点がありませんでした。

このように、私は20歳からは母とは25年近く同居しておりませんでしたので、気が強い母のイメージは比較的薄れ、小さい時の優しい母のイメージの方が暫く強かったと思います。

しかしながら、体調を崩して2回目の離婚をして、数年母と同居していると、母が教会内で色々な信者さん方や天理教関係者の方と接している姿を見て、
『それはちょっと違うのではないか?』
という場面にかなり出くわしました。

母は19歳の時に1年間弁護士事務所で事務をしていた経験はありますが、その後は天理教の中にどっぷり漬かっていてある意味一般社会経験はありません。
現代社会から見ると?な天理教団内での常識が悪い意味でかなり母の心に浸透しているように私からは見えました。
私なりに母に色々と注意をしたこともありましたが、親子ですので、どうしても言い方がストレートになってしまってなかなか真意が伝わらない場面もあり、ある意味あきらめもございました。

そのような中で、今の妻と出会い、このご時世ではあり得ない天理教の教会での嫁姑の同居を快諾してもらいました。
ただ、母のことも、妻のことも十分に知っている私としては、二人が長時間一緒にいるのは難しいなとも思っていました。

また、母は昭和な女性で、
賞味期限が切れた食品も気にならないような人です。

妻は、
栄養士や食品衛生責任者の資格を持っていて、食品会社で品質管理の仕事をしている人です。

『この二人では価値観が全く違うよな。』とも思っていました。
但し、私も小さい時から整理整頓ができていないと気が済まない太刀ですので、この点においては私の感覚は妻寄りです。
 
こういった状況の中である時、私と母がぶつかりました。
その際にある方に相談したメールが以下の通りです。
 
***************私からのメール**************
-----------以下お話では省略------------
母のことです。
父が3年前に他界する1年前から都合2年間ほど母と二人で暮らしていましたが、今の妻と結婚した2年前から母と私達夫婦で同居しています。
母と二人の時はあまり問題は感じませんでした。
母はもともと、教会長夫人ではありましたが、我が強く、気にいらいない信者さんや部内の会長さんには冷たく上から目線で当たり、何人も母の元を去っていった方がいます。
私から見ても悪いことをしているので、注意したこともありますが、相手が悪い、自分は悪くない。の一点張りです。
とてもおやさまのお人柄をしのぶようないい教会長夫人ではなく、世間一般に出たら問題アリの性格だと思います。
一部の従順な信者さんや自分の気に入った信者さんだけが残っているような状態で、祖父の代の信者さんに比べたら父母の代の信者さんは1/5程度だと思います。
そのような中に今の妻が同居してくることになったので、一緒にいる時間が長くなると絶対にトラブルになると思い、今の妻には仕事は絶対にやめないでといっていたような経緯もあります。
この為、
----------------------------------------
結婚した当初は??な上から目線の指図を妻にかなりしていて、妻は反発をしております。
妻もなんども泣いていて、母に教会長夫人だった人がなぜそのような態度をとるのか?人になぜやさしくできないのか?
そんなことだから、離れた人が多くいるのではないかと詰問したことがあります。
母はその時は黙って聞いていましたが、あとで、
『以前は優しい息子だったのに、結婚したとたん親に反抗する親不孝な息子になった。』
とことあるごとに言い出しています。
妻は食品会社の品証部門にいる潔癖症で、母は雑巾と下着を同じ洗濯機で同時に洗うような人で、感覚的に全くあっていないような状態でもあります。
今日も母が腐ったらっきょが入った瓶をずっと置いていたので、
私が
『あれはどうしたの?』
と聞くと、
『私は持ってきていない。私は知らない。』
と言い張ったので、
『それはおかしいやろ?忘れたというなら分かるけど、自分は全く関係ないというのは、ご飯食べたのに食べてないという認知症の老人と一緒よ?本当に大丈夫?病院に行く?』
と強く聞いたら、
『あんたは私を病気扱いして追い出そうとしている!!』
『二人で私をいじめる!!昔は良い息子かと思っていたけど、あんたみたいな親不孝はいない!!あんた達は私より先に死ぬ!!私は信仰しているから我慢しているけど、信仰していなかったらとっくに出て行っていた。』
と自分は信仰をしているから正しくて、自分に酷い事を言う私には先に死ねというようなことを叫びだし、目が点になりました。
『いやいやそうじゃなくて、本当に認知がおかしくなったんじゃないかと心配しているだけやろ?』
と言うのですが、全くダメです。
疲れてしまいましたが、嫁姑問題でもありますが、母自身の問題が大きいとも思い、どうしたものかと。
どう悟ればいいのか、いまがっくり落ち込んでおります。
このようなケースはどうすればいいか何かお知恵がないでしょうか?
一般的な天理教内の考え方ならば、親を立てるということかと思いますが、良くないことをしていたら注意すべきですし、ただ親子なのではっきりと物を言ってしまうのが問題なのか?
しかし、誰かがはっきりと注意しないと、悪いと気づかずに勘違いするし、でも、注意しても反発するだけだし、
別居でもした方がいいのか?などとも考えてしまいます。
夫婦は鏡と前回教えていただいて、全くそうだと思いましたが、そうなると親の姿も自分の鏡でもあるでしょうし、どうしたら母がいい方向にいくのか?
同時に妻の不満も解消しないといけませんし、信者さん方に変な態度をとられてもいけませんし、頭が痛くなってきました。
かなりの愚痴で申し訳ございません。
このようなケースでなにかいいお諭しなどがありませんでしたでしょうか?
********************************

このメールに対して、以下のような回答を頂きました。
 
*********************************************
鏡とは何の為にあるのか?
 
喜べない状況を我慢する為に鏡がある訳ではありません。
鏡とは『喜びの未来』を映し出す為にあります。
 
理の鏡映してもみん我が相(すがた)
過去も未来も映りて来るぞ
 
鏡に映る『過去』とは、これまで通って来た自身の姿。
もし鏡に喜べない姿が映る時は『これは自身の過去の姿』と悟ることで、ひとまず相手を責める気持ちを治めることができます。
『自身の過去の姿』とは過去にだけ存在するのではなく、もし鏡が無ければ自分も同じ轍を踏み、他の誰かを意図せず傷つけてしまうわけです。
『意図せず』とは自身では正しいと認識しての言動なので、相手に問題の矛先を向けてしまいます。
しかし、それでは対立しか生まれず、対立にある先は破局です。
現状、お母様の言動に嫌な姿を見せて頂いているお陰で、もいちゃん自身は嫌な部分を抑え、反面教師として自然に嫌な部分を是正できている訳です。
 
神様が『鏡』に映し出して欲しい未来とは『皆が喜べる陽気ぐらしの世界』。
言葉にすれば簡単ですが、実際に映し出すのは難しいですよね。
それでも、この方向性だけは見失わずにいないと、現状の立ち位置が狂い、陽気とは真逆の陰気な方向へ進んでしまいます。
 
現状では、お母様の姿で嫌な面が映し出されていますが、良い面は鏡に映し出されていますか?
お母様の嫌な面のお陰で自身が助けられていると悟れたら、良い姿も見えて来るはずです。
-----------以下お話では省略------------
今、もいちゃんの心が疲れているなら、先ず鏡を用いて自身の心を治める思案をするのが先決です。
 
私の先生から度々『治めるのが善』と教えられました。
--------------------------------------------
どんなに理不尽な相手でも、身に覚えのない事を言われたとしても、そこで腹を立てたら悪理の上塗り。
『治める』とは『我慢』とは違います。
なぜ心が疲れたり乱れるのかと言えば『治まっていない』からです。
 
『治まっていない』なら『鏡』を見ていないし、『たんのう』もしていないと悟れます。
 
でも、今の状況で『たんのう』するのは難しいですよね。
『たんのう』は我慢ではなく『鏡』の中に喜びの未来を映し出すこと…ですが、頭では理解できても心が追い付かないことは当然あります。
それはもいちゃんの能力の問題ではなく、
一人の能力では到達できない次元があるからです。
 
 
-----------以下お話では省略------------
夫婦は鏡と教えられますが、同時に夫婦とは『創造の最小単位』であり『創造の元の種』。
月日という夫婦が創造の最小単位であり、夫婦和合の末に人間創造が始まり、夫婦の談じ合いから素晴らしい人間世界が創造されたのです。
月様の『人間創造のアイデア』に対して、日様が『それは素晴らしい考えです。』と答え、『ならば、こんなアイデアはどうですか?』と心を返すことで、月様に新たなイメージが膨らみ『それは素晴らしい!それなら、こんなアイデアも考えられる』…
この様に夫婦和合の相乗効果で創造は幾何級数的に前進し、この極大の大宇宙から極小の細胞に至る人間世界が創造されたのです。
 
この月日の立場を形に現したのが人間の夫婦。
 
この世の地と天(月日)を象りて、夫婦を拵え来たるでな
 
夫婦に子が授かる不思議は、月日の創造原理を夫婦に宿して、夫婦和合の末に一つの命を産み出す(創造)神の御業。
これは出産だけではなく、一つの家庭という小宇宙(世界)に陽気ぐらしを創造する為の原理。
『鏡』と言う教えは、この陽気ぐらしを創造する為に与えられた方法なのです。
 
夫婦とは上下の区別なく対等です。
 
もいちゃんが辛い時は奥さんに頼ればいいし、奥さんが辛い時はもいちゃんがカバーすることで、お互いに足りない部分を補いながら陽気ぐらしを創造できる訳です。
もいちゃん一人が全てを背負う必要はなく、むしろ夫婦でよく話し合って、この先の行動を選択するのが最善です。
夫婦で話し合う時に、自分達の立ち位置が狂わないように『鏡』が必要になるのです。
------------------------------------
『鏡』にお母様の嫌な面だけではなく、良い面も映し出すことで心を公平に保ち、相手を思いやる優しい心の状態に立ち返えることで理性的な決断ができる訳です。
 
自分もそうですが、親子とは同じ因縁の組み合わせなので、激しくぶつかることもあれば、最高の幸せを感じることもできます。
もいちゃんの話から察するに今は因縁の『悪』の部分が露になっていると悟れます。
でも、これは『善』に向かうに避けて通れない工程なのです。
-----------以下お話では省略------------
創造の前には『悪しき払い』が欠かせません。
 
『悪しきを払うて助けたまえ』
 
これが創造原理。
 
おやさまが中山家を貧のどん底に落としたのは『神屋敷』を創造するための『悪しき払い』です。
家を普請する時に古い母屋を取り壊した上に新しく普請するように、古い土台を残したままではいつ何時崩落の憂き目にあうか知れません。
 
なので、今のもいちゃんが陥っている状況は、魂の視点からすれば『助け』の前段階。
神様は『形の悪しき』を現し因縁を教えることは出来ても、『心の悪しき』(病の根)を払えるのは人間だけです。
 
『鏡』に喜びの未来を映し出せるのは、神様のお詞を身に付けた魂人間ですが、同時に『鏡』に喜びの未来を映し出せた時に魂人間になるのです。
------------------------------------
そして創造の元の種は『夫婦揃ってひのきしん』。
夫婦が同等であり、お互いに相手の喜びを共に楽しむこと。
 
お母様のことはともかくとして、先ずは夫婦の心を一つにすること。
神様のお詞を元に一つにするのが理想ですが、お詞を知らない世間一般の夫婦でも仲睦まじく暮らしている方は沢山いますよね。
それは、どんな次元であれ、お互いを尊重し、頼り合い、助け合う夫婦には『創造原理』が働き家族を幸せにするからです。
 
-----------以下お話では省略------------
もいちゃん夫婦の場合、もいちゃんの方が賢い部分はあるかもしれませんが、奥様の方が秀でている部分も必ずあるし、もいちゃんには思いもよらない賢い考えが出来る場合もあるはずです。
----------------------------------------

先ずは夫婦という創造の最小単位を固め、心を一つすることが理の順序。

-----------以下お話では省略------------
奥様に指図したり優しさを求めるのではなく、奥様のありのままの心をもいちゃんが受け止め、尊重することで心を一つに近づけます。
奥様の喜びを共に楽しめば、自ずと奥様ももいちゃんの喜びを共に楽しまれる。
----------------------------------------
 
この最小単位の陽気ぐらしが創造されて初めて、現実の陽気ぐらしとして誰の目にも映る雛形になるのですから、何はともあれ夫婦の固めですね。
 
夫婦の固めと言っても難しいことではなく、もいちゃん一人の心で為しえること。
 
-----------以下お話では省略------------
理の鏡に喜びの未来を映し出し、心治められるのは、お詞を聞くもいちゃんより他ありません。
----------------------------------------
 
お母様と別居するも、共に暮らすことも、何を選んだとしても、その心通りに神様は御守護くださいますが、決断する際に心に悪しき(憎しみ恨みなど相手を悪く思う感情)を抱えたままでは、そもそも立ち位置が狂ってしまうので、『鏡』による心の整理が役に立つのです。
 
もちろん『たんのう』できない場合もあります。

-----------以下お話では省略------------
私達の現状でおやさまの様に心を運ぶのは難しい場合もあります。
------------------------------------
 
お母様と別居して心の負担が減るのであれば、そうするべきです。
この形は正解、この形が間違っている…そんな事はなく、神様は形に制限を設けていません。
 
ただ『たんのう』できないのと、『相手を憎しみ恨む』とは別の問題で、この悪感情のままでは悪しきを創造することになり、未来に禍根を残します。
 
-----------以下お話では省略------------
『たんのう』できないのであれば、相手にその矛先を向けるのではなく、自身の心の未熟さを知る契機と考えてください。
未熟であることを恥じる必要はありません。
未熟(悪しき)を知ることが成人(たすけ)に必要な工程なのですから。
未熟な自身に気が付ける(神様が悟れる様に教えてくれた)ことは自身の宝なのです。
------------------------------------
 
今は辛いこともありますが、心はそうやって作られて行くのですから、決してマイナスな事が起きているのではなく、むしろプラスに前進しているのです。
 
もしお母様に酷い事を言われたとしても、それは本心ではありません。
お母様だけではなく、人間の本心とは優しい心なのです。
誰でも優しい心が一番好きだし、優しい人間に成りたいと思うけど、自分を守る為に本心を隠して暮らす他ない人が殆どです。
自分を守る必要があると考えるのは、神様を知らぬ故。
神様を知ればいつ何時でも理の鏡に照らし、優しい心を失うことはなく、本心のまま心自由に暮らせる訳です。
 
心自由とは魂に与えられた人間の宝。
心自由とは、酷い心も、どんな心も自由ですが、神様と同じ最高の心にも成ると言う意味です。
 
月日は『人間の喜びを見て共に楽しみたい』と言う最高の考えに至ることで、永遠に心が定まった。
永遠に変える必要がないくらい最高の考えだからです。
月日は自由の心がありながら、たった一つの優しい心に定められたのです。
 
それが私達の信仰目標であり、楽しみでもあります。
現状、治められないことを心一つで治められたら、それは心自由の発揮であり、他人が見たら不思議と言う他ありません。
それが、おやさまの為された道中であり、陽気ぐらしの雛形であり、私達の目標ですが、今は届かなくて当然です。
届かないことを卑下する必要は全くありません。
 
自身の未熟さを知れたことが未来への宝なのです。
その時、私達は次の段階へ進んでいるのですから。
 
以上ですが、何か気になることがあれば遠慮なく聞いてください。
*********************************************

このメールを頂いた後に、次のように返信いたしました。
*********************************************
ありがとうございます。
たんのうまでできなくても、あしきを積まないのが大事だと思いました。
母も自分を守るためにでた言葉だと思いますし、私も我が親だからときつく接したところもありました。
心が治まりましたので、今後具体的にどう対応していったらいいかを夫婦と母と相談していきます。
我が家が治らないのに、人様のことの相談に乗れないですよね。
ありがとうございました(^^)
*********************************************

このメールを打った後に、妻にもこのメールを見せて二人で2時間程今後どうすべきかの話し合いをしました。
ただ夫婦間では十分に心は収まったので、母を恨むではなく、普段通りに接していこうという話になりました。
翌日の母は比較的普通で、昨日何もなかったかのような態度でした。
母は母なりに、思っていたことが堰を切ってでたのでしょうし、血の繋がった親子でもありますし、今回のことはある意味『たんのう』できたかと思っています。

これからも、親子で色々なことはあるかもしれませんが、今生で親子の関係になっているということは、当然魂レベルでは深く繋がっている筈ですので、お互いを鏡として前向きに捉えていきたいと思います。

親子とは余りにも距離感が近いので、どうしてもお互いに遠慮なく発言してしまうことが多くなりますが、一歩引いた所から接すればいいのかなとも思います。

このタイミングで親子3人が一緒に暮らさないといけなくなったことにも意味はある筈ですし、そこも深く考えて、お互いがいい距離感で前向きに暮らせるように、血縁に甘えることなく、日々心掛けて暮らしていきたいと思います。
どんなことがあっても自分を産んでくれた親ですから、最期には赦しあえると思っていますし、現在は普通に三人で暮らしております。
 
以上つたないお話ではございましたが、御清聴ありがとうございました。(かしわ手)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?