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繊細な作家の思考を辿る旅〜「ライ麦畑の反逆児」を観たあとで。

文章を書く側としての自分を考えてとりとめのない考えの中に漂っていたときに零音さんのこれを読んだ。(こういう、ひたすらに考えているとヒントや答合わせみたいなものに出会うというのは スピリチュアル云々以上に人間の持つ不思議な能力だなぁと思う。)

ま、それもあって昨夜オットとふたりで「ライ麦畑の反逆児」という映画を観る。沢山のレビューが出ているし、もちろん零音さんのレビューもあるのでそちらを読んで戴いた方が、とは思うのだけれど、静かな映画の中に繊細な若者が世間と上手く折り合いを付けられず傷ついていく時間を見ていた。

多くの人が残虐性や悲劇とのコントラストでしか幸せが見えなかったりするが、サリンジャーはある意味対極で繊細で感受性が高すぎたから欺瞞の世界にしか映らなかったのだろう。「ライ麦畑で捕まえて」は私は野崎孝さんの翻訳のを読んでいたが、実を言うとこの本は正直好きではなかった。ストーリー(あるいは訳)が、ではなく、ホールデンが、だと今になるとわかる。理解出来なかったのではなく よく分かるからこそ本の中で彼がぶつかるあれこれのことに「バカじゃないの?」という怒りみたいなものを感じたんだろう。(だから、ナインストーリーズも、フラニーとゾーイーも、姉は愛読していたが私はとうとう読まなかった。)

ただ、映画を観て初めて・・・あるいは今の年齢になったからこそなのか、共感したり、共感は出来ずとも理解出来ると思えたりすることが増えた。オットの蔵書に村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」があったのを思い出したので後で読もうと思う。

サリンジャーと恩師のウィット・バーネットのやりとり。私にはここが一番心に残った(他人との関わりで人生は変わるよね)。そして彼ら二人の沢山の場面から私も沢山のヒントを貰った。(余談だが、この映画はサリンジャーの人生に関わった人達の話でもあって、特にウィットと彼のことは、最後までものすごく切なかった。設定が違ったらこんな切ない恋愛ストーリーはない、ってものに出来ただろうに。)

これまであちこちの文中で「私は自分のために文章を書いている」「その目的は私という形を明らかにするからだ」と書いてきた。まぁ大体市場原理とか「読まれること」とかに無頓着というより無関心な 自分の根っこに近い考えを見るとそういう言葉になったというだけなのだが。

お客さんを想定しないエンターテイメント(と表現するのが正しいかどうかはここでは議論しない)を作ろうとするのは意味のないことなのか。私にはそういう疑問がずっとあった。そしてこの映画は答ではないがなにかを私にみせてくれた気がする。今の自分を許容してはいないのだが、「ではどうしたら私自身、私の心の願いを受け入れられるか」が見えた感じがする。

ところで、この映画を見始めてすぐ、オットと「この俳優さん・・・何で見てたっけ?」という話になった。とにかくすごく見たことがあるのだ。そしてしばらくしてオットが「ああ・・・About a Boyの。。。。」と言う。

これ、私達夫婦で大好きな映画なのだ。何度もみた。ヒュー・グラントが好きというのもあるが、とにかくこのいじめられっ子の子供、ニコラス・ホルトが良い。「フツウの男の子」になれない男の子と、フツウよりカッコ良い感じの男の子、から成長出来ない「かつて男の子だった」青年と。

すごい子役だと思っていたけど、当然のようにすごい俳優になってた。しかも話し方もあのイギリス(ロンドン)アクセントからきっちりニューヨークアクセントに直してる。

良い俳優になったよねぇ。うん。

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