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からだはどこへいった〈解放と癒やしについて〉

未解決のまま溜め込まれた依存心と、それを抑える蓋としての攻撃性について書いています。

今回は「解放と癒やしのために大切なこと」です。


●からだは感情と共にあるもの

未解決の依存心を溜め込み、攻撃性を循環させながら感情に蓋をしている人には、ひとつの特徴があります。

それは身体性の欠如、つまり「からだ不在」ということです。

攻撃性は、それそのものは決して悪いエネルギーではありません。この攻撃性のエネルギーがあったからこそ、人は探索し、発見し、挑戦し、進化することができたわけです。

生き物は移動することによって繁栄します。どんなに保護されても小さな島から動かなければいつか絶滅してしまいます。いくら人間には思考する力があるといっても、生まれたその場所からじっと動かず思考しているだけでは滅びてしまいます。からだを動かすことは、生き延びることの基本なのです。

にもかかわらず、たとえばSNSで誰かを叩き続けている人には、おそらく身体性が欠如しています。炎上に加担しているとき、コメントで激しく糾弾しているとき、その怒りに「からだ」が存在していません。いわば「からだ不在」のような状態です。

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ヒトを含む多くの動物には「怒りを表現するためのからだの動き」というものがあります。本能的な動きです。

たとえば猫ならば、毛を逆立て、牙を剥き、背中を高くしてしっぽをふくらませて身体を大きく見せます。威嚇するような声も出します。からだの動きや姿勢によって、怒っていることが一目瞭然です。

こうした怒りの表現は、ヒトにももちろんあります。猫と共通する動きも多く、歯茎を剥き出しにしたり肩をいからせたりします。猫のような体毛はありませんが、毛穴が開くような感じになります。全身の筋肉が緊張してこわばり、顎を突き出すような表情をしたり、腕を振りかぶるような仕草をしたり、足が大きく開いたりします。見てわかるほどブルブル震える人もいるでしょう。

つまり「攻撃性」というのは、基本的に相手がいてのことなので、「相手に対してこちらの怒りを知らしめる」という目的がまずあるわけです。だから、からだの自然な動きとしては「怒っていることが一目瞭然」になります。猫でも他の動物でも、ヒトでも、これは同じです。

一方で、SNSで誰かを叩き続けている人のからだはどうなっているでしょうか。

ソファに座ったり寝転がったり、どちらかというと楽な姿勢でスマホを見ている人が多いだろうと思います。イスに座っているとしても、スマホを見るために背中を丸めて縮こまった姿勢になります。どの姿勢でも、足に力が入っている人はいません。歯茎を剥き出しにしたり、腕を振りかぶって今にもスマホを壊そうとしている人はあまりいないはずです。

「からだは怒っていないのに意識だけで怒っている」、つまり「からだ不在」の状態なのです。

SNS上で今まさに誰かを激しく罵倒している人を、もしも家族が見かけたとしても「怒っているのかな?」とは思わないことでしょう。YouTubeやLINEをしているときとほとんど変わりない姿勢だからです。

これはとても不健全なことです。

本来、人の心とからだはつながっています。というよりも「ひとつのもの」です。思考する脳も同じ。すべてはこの私というひとつのもの、私のからだというひとつの器にあるものです。心だけを取り出して引き出しにしまったり、思考する脳だけを持ち歩くことはできません。心とからだと脳はひとつのもの。当たり前のことです。

でも、寝転んでじっとした状態のままSNSで激しく誰かを罵倒している人は、心とからだと脳がバラバラに分裂してしまっています。眠りに入るのと同じ姿勢で激しく怒る動物がいるでしょうか。縮こまりうつむいた姿勢で相手を威嚇する動物がいるでしょうか。そう考えると、いかに不健全なことであるかがわかります。

たとえば、スマホを見ながら「ムカつく〜〜〜!」と足をバタバタしているのなら、まだマシです。怒りを感じるような場面では、血流の多くは足に集まるものだからです。そうして足に集まった怒りのエネルギーを、「足をバタバタさせる」というからだの動きによって解放することができるわけです。

ムカつくと叫んで足をバタバタしているとき、顔の筋肉も動いているでしょうし、手もバタバタさせるかもしれません。それによって怒りのエネルギーが溜め込まれることなく解放される。これが健全な循環です。

つまり、怒りそのものは悪いものではありません。攻撃性のエネルギーは決して悪なのではない、人が生きるために欠かせない大切なエネルギーです。

ただ「そのつど解放させること」が重要なのです。

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これは今までのnoteで描いてきた「心の穴」のイラストと、基本的には同じものです。今までは便宜上、足元の地中に穴があるように描いていましたが、本来「心の穴」はからだの中にあります。

怒りを自然な形でからだの外に出せない人は、からだの内側に怒りが溜め込まれてしまい、「怒りサイクル」が生まれてしまいます。自分のその怒りを再利用してさらに怒り続けてしまうという、怒りの循環ができてしまいます。

また、怒りサイクルができてしまうことで、「感情の蓋」も強固なものになります。助けてほしいときに助けを求められない、わかってほしいときに自己開示ができない。依存心が癒やされず、どんどん苦しくなるので、他者への処罰感情もますます膨らんでしまいます。

一方、からだの外に怒りを出すことができた人は、そのつど外に出ていくので、からだの中に溜め込まれることがありません。その怒りを燃料にしてまた怒るということもありません。からだはいつも健全なエネルギーが出入りする状態です。

さらに、怒りが溜め込まれないということは、「感情の蓋」もそれほど重くないということです。依存心は必要以上に抑圧されないので、必要なときには助けを求めたり頼ったりすることができます。なかなか解決できない大きな問題を抱えていたとしても、なんとかしのぐことができるのです。

このように、健全に攻撃性を解放していくために何より必要なのは「からだ」です。

からだ不在の状態のままでいると、怒りは増幅し、抑圧された依存心はますます突き上げようとします。そうした自分の感情を処理するのに、思考する脳の力を頼ろうとしますがうまくいきません。さらに、感情をうまく処理できない自分を恥じたり、他者への怒りがますます募るということもあります。それもこれも「からだ不在」が引き起こしていることです。

どんなときも、からだは感情と共にあります。あるべきです。それが人の自然で、自然のままに任せていれば解放も自然のうちになされていきます。

からだが不在のまま、感情だけがひとり歩きしてしまっている。あるべき自然な姿が調和を欠いてしまい、不自然な状態で生きているのが私たちです。


●心を無視してからだを動かさない

前回のnoteで『しくじり先生』に出演された二人の女性の話をしました。

トレーナーのAYAさんは、日夜トレーニングに励み、徹底したメンテナンスを行っています。からだを動かしているのに、なぜ心の穴がいっぱいになってしまっているのかと疑問に思うかもしれません。

それは「からだが感情と共にある」ということができていないからです。

AYAさんにとって、からだはあくまでも「クライアントを指導する立場にふさわしいツール」です。つまり仕事の道具なわけです。決して「感情を表現するためのからだ」だったのではありません。

毎日のスケジュールは時間ごとに厳密に決められ、食べるものやトレーニング内容まで細かいルールがあり、AYAさんはそれをストイックに守り続けていました。感情とは関係なく、からだはトレーニングロボットのようにメニューをこなしていました。

彼女のからだは、脳が考えたルールやメニューに完全に支配されていました。押しのけられ無視され続けた感情たちは、心の穴にどんどん溜まっていたはずですが、強靭な筋肉が「感情の蓋」の役割をしっかりと果たしていました。心とからだはバラバラに分裂し、思考する脳だけが働いていました。

これは、寝転がりながらSNSで誰かを罵倒する人と同じ状態です。

「もうAYAやめたい!」「自分に正直に生きたい」という心の叫びにやっと気づいた彼女が、これからやりたいことを打ち明けたとき、それでもなお、脳はからだを支配しようとしていました。

〝ピンクのドレスを着て男性に甘えてみたい〟
〝原宿でクレープを食べたい〟
〝ケーキバイキングで思いきり食べたい〟

自分の内側から湧き上がる素直なこの願望に対して、彼女はこうも言うのです。「私みたいなマッチョな女性がピンク着てるとどうしても気持ち悪いとか思われるじゃないですか」「AYAがクレープ食べたらなにか言いません?『なんで食べてるのAYAさん』って言いません?」

少女のようなかわいらしい望みを口にするその瞬間、彼女は背中を丸め、伏し目がちでうつむき、恥の表情を見せていました。それまでは堂々と姿勢よく話していたのに、です。

望みを口にするということは、本来、明るく希望に満ちあふれる気分にしてくれるものです。「ピンクのお洋服が着たい♡」と飛び跳ねるような気持ちになるものです。

望みを口にした瞬間のAYAさんには、まだ、思考する脳が邪魔をしていました。依存心と、それを抑えようとする力とが、からだの中で葛藤していたのかもしれません。

ともあれ、からだの動きは「感情が伴わなければただのエクササイズにすぎない」ということです。もちろん、健康を維持する目的で運動するのはとても大切なことですが、そうした動きが、怒りや攻撃性を解放してくれることはありません。

楽しいときは笑う。うれしいときは飛び跳ねる。感激したらぎゅっと噛みしめる。驚いたら息をのむ。悲しければ涙を流す。落胆したら脱力する。怖いときは逃げる。防御するときは手が動く。戦うなら体に力を入れて構える。心がオープンなら両腕を広げてよろこびを迎え入れる。喉が渇けば水を飲む。お腹がすいたら食べる。疲れたら横になる。

筋トレもヨガも、どんなものであっても、心が伴わない動きに心の解放はありません。からだの動きというものは、感情とリンクしてはじめて大きな意味を持ちます。日頃のエクササイズとは別に、「心と共にあるからだの動き」が重要なのです。

余分な筋肉をつけることが、かえって鎧になってしまい、解放を妨げることもあります。がっちりと筋肉の鎧がついた状態で過度なトレーニングを続けると、からだの中で攻撃性が循環する「怒りサイクル」が生まれやすくなるので注意が必要です。


●攻撃性だけを解放すると依存心が爆発する

最終的にはやはり「未解決の依存心を癒やすこと」が重要です。

ただしそこに到達するには、まず先に「攻撃性を解放すること」が必要になります。依存心の上にどっかりと載せられた重たい蓋を取り除かなければ、依存心を取り扱うことはできないからです。

かといって、攻撃性だけを解放して、依存心だけがそのまま残ってしまったら、それはそれで大変なことになってしまいます。

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助けてほしい、甘えさせてほしい、という気持ちが制御できなくなってしまうと、人間関係がこじれたり、社会的な場面で困ることが出てきます。

迷惑をかけるほど誰かに頼ってしまったり、他人との境界線が曖昧になり感情的になってしまったりします。過剰に頼りすぎて、相手から嫌われてしまうこともあります。心の隙を狙って儲けようとするような人に、依存心を利用されてしまう場合もあります。自立してしっかり生きようという意欲がすっかりなくなってしまう、ということもあります。

そうして他人にSOSを出し続けることが、本人にとってはとても苦しい場合あります。特に今まで真面目にがんばってきた人であればなおさら、恥の意識や罪悪感を抱きます。「なんて無力な自分なんだろう」と感じて崩壊してしまったり、逆に反動でまた攻撃性が高まってしまったりします。

また、SOSを出しても誰も助けてくれない…と絶望したあとは、「見捨てられる恐怖」に襲われて心身が崩壊してしまいます。助けを求めることも、頼ることもできません。薄暗い穴の底で、ただただ凍りついたようにうずくまるしかなくなります。

このように「攻撃性」だけを解放して、なくしてしまうと、いろいろな問題が起きがちです。

また、攻撃性の解放を一気に進めてしまうことも、リスクがあります。

密室で火事が起きているとき、外からいきなりドアを開けてはいけないのと同じです。急激に新鮮な空気を入れることで、燃焼が激しくなり大爆発を起こしてしまうのです。

たとえば何年も恋愛をしないでいた人に久しぶりに恋人ができたとき、相手に依存しすぎたり、度を越して要求してしまったりすることがあります。それまでは一人でもちゃんと自立しているように見えたのに、久しぶりに恋人ができた途端、LINEを何通もやりとりしたり、会いたい気持ちが抑えられなくなってしまったりしてしまうのです。これは「攻撃性の解放」が一気に進みすぎたせいでもあります。

攻撃性は決して悪いだけのものではありません。SNSで他人を叩くために使うべきではないけれども、日々生きるためのエネルギーとして必要不可欠なものです。ただ「依存心を抑えるための重し(蓋)」にするのが不健全だというだけで、活力としてなくてはならないものです。

攻撃性は、ゼロにしてしまうのではなく、「より健全なエネルギーに転換していく」ということが大事なのです。


●できるだけ時間をかける

解放と癒やしは、できるだけ時間をかけて進めていくことがとても重要です。

心とからだを連動させることも、攻撃性を少しずつ解放していくことも、依存心が膨らみすぎないようにしながら癒やすことも、すべては「少しずつ」です。

生きていれば日々、いろいろなことに直面します。そのつど、さまざまな感情が生まれます。それらのひとつひとつに反応していくこと。解放し、癒やしていくことです。

一気に済ませてしまおうと思うと、攻撃性がうまくからだの外に出ることなく、怒りのサイクルが生まれてしまうかもしれません。一気に解放しすぎて、依存心が爆発してしまうこともあります。

そして何より「一気に進んだことは一気に後戻りしやすい」ということがあります。

ダイエットが良い例ですが、短期間に激ヤセした人ほどリバウンドしやすいものです。

感情を一気に扱うと、自分自身も圧倒されてしまい、かえって恥ずかしく感じることも少なくありません。恐怖感もあるかもしれません。それは「依存心を表に出すことに対する抵抗感」となって、せっかくの癒やしを阻んでしまいます。

からだには「少しずつくり返して覚えさせたことは忘れない」という仕組みがあります。いったん自転車に乗れるようになれば、何年も乗らなくてもやり方を忘れないものです。でも短期間に一時的に覚えたことは、やめた途端にすっかり忘れてしまったりします。こうしたからだの仕組みを利用して、解放と癒やしが自然に起きるからだになるためには、「少しずつくり返す」ということが一番有効なのです。

つまり、適当にやることです。

攻撃性を「感情の蓋」にしてしまっている人は、そもそも真面目であったり、ストイックであったり、ルールに厳格であったりします。そうしなければ蓋の重さを維持できなかったからです。

また、依存心に蓋をしていたことが、間違いだったと思ってしまうと「攻撃性を解放しなければ!感情の蓋を取り除かなければ!」と、必死になってしまいます。そのことが失敗だと思えば思うほど、さらに感情の蓋は強固になってしまうということもあります。

「感情の蓋」は、悪いものでも邪魔なのでもありません。無力な子どもがひとりで抱え込んだ寂しさを、支え、守ってくれた蓋でもあります。いつも「問題はかつての解決策であった」のです。

怒りや攻撃性を解放するときは、「これがあったから今の私があるんだな」「今まで守ってくれてありがとう」という感謝の気持ちを持つようにしましょう。

要はからだに任せてしまえばいいのです。

マニュアルに沿ってやるのではなく、目標を設定するのではなく、からだが動くままに、からだの望むように、心とからだの声がひとつになるのを聴きながら、時間をかけて進めること。

ストイックにやろうとするのではなく、ほぐれた気持ちでゆる〜く取り組むほうがうまくいきます。


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