見出し画像

幸せに慣れていないと、幸せになれない

未解決の依存心を溜め込む「心の穴」について書いています。

今回は「幸せに慣れていないこと」についてです。



人が抱える傷つきのほとんどは、幼い頃に経験したものです。

もちろん成長して大人になってからでも辛いことを経験することはあるし、衝撃的なできごとに遭遇して大きなトラウマを負うことはあります。ただ、大人になってからの辛い経験というのは、自分で何らかの対処をしたり周りに助けを求めたりができるので、傷つきはするとしても、少しは乗り越えられる部分もあります。

それに比べ、幼い頃の辛い経験というのは、うまく対処できない場合が多いのです。友だちやよその大人に傷つけられても、親にうまく伝えることができなかったり。そもそも自分の親との愛着の中で傷つく毎日であったなら、子どもにできることはほとんど何もありません。

子どもというのはとても無力な存在で、トラウマ的なできごとに対しては親や大人がしっかり守ってやらなければならない存在です(守りすぎてそれが傷になる場合もありますが)。

しかしその親や大人から傷つけられたら、子どもとしてはもはやなすべもなく、衝撃をまるごと受けとめるしかありません。

たとえば無力な子どもにとってほとんど世界のすべてである「家庭」が子どもを傷つける場所であったとしても、ただただ辛い日々に耐えて生きるという選択しか子どもには許されていません。子どもが家を出れば、野垂れ死ぬか、もっと心ない大人に傷つけられてしまうだけだからです。

だからたとえどんなに辛い思いをさせられても、子どもは、ナイフで切り刻まれるような体験のすべてを、小さな心とからだで受けとめ続けるしかないのです。

そうして幼い頃の傷つきは、子どもの心とからだに深く刻まれ、大人になるまで昇華されることもなく、その後の人生を「傷つきを抱えて生きる」ということになります。

つまり「傷つきを抱えて生きている人」というのは、「逆境の子ども時代を生きた人」、不遇を生き延びた人なのです。



子ども時代に逆境を生きた人は、「幸せでいること」に慣れていません。

逆境の反対語として「順境」という言葉があります。環境や条件に恵まれ、苦労することなく、ものごとがすんなりと運ぶような境遇です。逆境を生き延びた人は、この順境が苦手なのです。

逆境の中で育った子どもは、大人になってからも、逆境の中をそれはそれはたくましく生き延びます。心の穴には依存心が溜め込まれていますが、それを覆い隠す「攻撃性」という鎧を身に着けているので、少々のことではへこたれません。

親にさえ、ちゃんと愛されなかった自分なのです。小さな心とからだでそれを受けとめなければならなかった時代に比べれば、大抵のことは乗り越えられます。

悲しみの荒波にも、凍えるような孤独にも、幼い頃からたったひとりで耐えてきた自分です。歯を食いしばることも、褒められるために頑張ることも、ほんとうの自分を抑圧することも、なんてことない。それほど辛いとも思わず耐えられてしまうのです。

頑張ったり歯を食いしばったりするほうが、余計なことを思い出さずに済みます。逆境は、気を抜く余裕を与えないようにしてくれる。おかげで感情の蓋となるエネルギーがいつも供給されます。心の底に溜め込まれた依存心がうっかり浮上する心配がなくなるので、かえって好都合でもあります。

その一方で、逆境を生き延びた人は、順境ではまったく居心地の悪い思いをします。サイズの合わない下着をつけているような心地の悪さです。

「あなたがしたいようにしたらいいよ」と優しく言われても、戸惑ってしまうだけです。いつだって誰かの機嫌を伺って、その人に気に入られるように生きてきたからです。

「あなたはあなたのままでじゅうぶん素敵だよ」とまっすぐに目を見て言われても、信じられません。自分が自分のままでいてゆるされたことなどないからです。助けてほしいわかってほしい愛してほしいという気持ちは、すべて払いのけられてきたからです。無条件に自分を受け入れてくれるはずの親から、そうされなかったからです。

「そんなに頑張らなくてもいいじゃない」と背中にそっと手を当てられると、無性に腹が立ちます。凄まじい逆境を必死で生き延びてきた自分です。頑張らずに生き延びられるわけがないと思うし、油断してもしもダメだったらどうしてくれるんだ、と思うからです。

「自分にやさしくしてあげて」と言われても、何をしたらいいのか見当もつきません。「自分を大切にして」「自分を愛して」「自分を肯定して」というのも同じです。そんなこと、誰も教えてくれなかったからです。愛される価値のない自分だと信じて生きてきたからです。

逆境を生きてきた人には、「万事うまくいくさ」というeasy goingな境遇はまったく馴染みません。心とからだが、逆境の厳しさに適応して育ってきているせいです。

逆境を生きてきた人は、だから「幸せでいること」に慣れていません。

幸せな境遇に置かれても、安心してその穏やかさやあたたかさに身を委ねることがなかなかできません。何か不幸の種がないかと探し回り、小さな小さな不幸の種を見つけて「やっぱり!」と納得し、ひからびたその種にせっせと水をやるようなことをします。

そうして、愛する人に背を向けたり、自ら逆境の中に飛び込んだり、ずっと夢見てきた幸せを自分から手放すようなことすらしてしまうのです。



心とからだが逆境に馴染んでいるのか、それとも順境に馴染んでいるのかということは、とても重要なことです。

人それぞれに「こうなりたい」という望みがあって、ほとんどの場合それは、幸せを願うものです。「こうなれば幸せな人生だ」と自分が思うことを、望みとして人は抱くものです。

けれどその幸せを全身で受けとめることができないのなら、どんな望みも絵に描いた餅にすぎません。

望みが叶いかけたとしても自分から手放してしまったり、叶っても居心地が悪くて元いた逆境に戻りたくなってしまうのなら、望むことにも願うことにも、意味はないのです。

望みは、叶えることが目的なのではなく、「叶えたその先の人生を生きること」にこそ意味があるのだから。



人は誰でも、幸せの方角を目指して生きるようにデザインされているのだと思います。

ただし逆境では、幸せよりも「生き延びられるかどうか」が優先されます。まず生き延びてこそ、命を守り抜いてこそ、という本能があるからです。

逆境を生き抜いた人は、頭では「幸せになりたい」と思い描いているつもりでも、心とからだの「生き延びなければ!」という逆境モードが優先されていることがよくあります。

自己啓発本を読んで新しい習慣を取り入れようとしても、いつのまにか元の自分に戻っている。また次の本を読んで試すけれど、そのうちいつもの自分に戻っている。セミナーに参加しても動画を観てもやっぱり同じことのくり返し。そのうち「人生なんてうまくいかないものだ」という逆境的信念が強化されてしまう……

熱烈に好きになった人がいても最初だけで、付き合って数ヶ月するとなんとなく冷めてしまう。今度こそと思っても長続きしない。恋人とのんびり過ごしたあとは「こんなことしてる場合じゃない」と自分を戒める気持ちが強くなる。仕事優先になり、恋人のことはほったらかしてしまい、そのうちフェードアウトしてしまう……

占いをしたり神社でお詣りをしたあとはスッキリするのに、しばらくすると鬱々とした日々に戻ってしまう。悩むのが日常になっていて、どんより暗い気持ちでいるのが普通になっている。変わろうと思って行動したときは新しい自分になれた気がするけれど、それもしばらくすると、うつむきがちで自信のない自分に戻ってしまっている……

大切にしよう世界一幸せにしようと思って一緒になったはずなのに、顔を見ると嫌味ばかり言ってしまう。素直になろうと思うけど、一度試してみて相手の対応が思い通りじゃないとすぐ失望して、ばかばかしくなってしまう。イライラする、イライラをぶつけてしまう、自己嫌悪する、治そうと思う、またイライラする、イライラが止められない、また自己嫌悪する……

穏やかであたたかく優しさに満ちた春の日差しのような幸せの方角を目指しているはずなのに、何をしてもどうがんばってもうまくいかない、現実は変わらない…というとき、

そこには「逆境を求めている自分自身」がいます。

ずっと逆境を生きてきた人、幼い頃の傷つきを抱えたままの人、心の穴に未解決の依存心を溜め込んできた人は、「生き延びなければならない」という逆境モードで生きています。

生き延びなければならないから、生き延びなければならない境遇を求める。

心とからだが「幸せになることよりも生き延びることが先決だ」というモードのままで生きているために、生き延びたいという強い欲求に衝き動かされ、自ら逆境を選ぼうとしてしまうのです。



幸せになるための望みを何か抱いて、その望みを叶えるということは、「望みが叶った状態で生きていく」ということです。

つまりそれは、幸せな境遇で生きるということ。望みが叶ったら人生あがりなのではない、その先も人生は続くし、生きることもずっと続くのです。

だから、望みを叶えることよりも大切なのは「望みが叶った状態に慣れること」です。幸せな境遇を受け入れること。幸せな境遇の中に、自分の生きる居場所を見つけることです。

もしも今何か叶えたい望みがあって、だけどなかなか叶わないのだとしたら、叶った幸せに心とからだが馴染んでいないのかもしれません。

そうなのだとしたら、望みを叶えることよりもまず「逆境モード」を切り替えることです。心とからだに「幸せモード」をインストールすること。


もしもあなたの愛する人や大切な人が、心の穴に依存心を溜め込みながら今もなお生き延びようと必死で足掻いているなら、その人はかつて「逆境を生き延びた子ども」だったのかもしれません。

その人は、あなたが差し出した手を振り払い、あなたを押しのけ、背を向けていることでしょう。心配すればするほど、愛そうとすればするほど、遠ざかろうとするはずです。逆境のほうがよく馴染み、安心できるからです。

そのような人も、やはり「逆境モード」から「幸せモード」への切り替えが必要です。そして彼らを救いたいのなら、まず何よりも、自分自身が幸せに馴染んでいなければなりません。

自分自身が逆境に馴染んだままで、愛する人に幸せを味わわせることなどできないからです。


ただし、一気にやろうとしないこと。

あまりにも幸せな境遇に置かれると、心の穴の蓋が開いて、準備もできていないのに依存心がどんどん出てきてしまいます。無防備な状態で依存心と向き合えば、「やっぱり幸せって怖いものだ」と抵抗感や拒絶感が強まってしまいかねません。

逆境に馴染んだ心とからだを、順境に馴染ませていくためには、時間をかけて違和感を減らし、気づいたら「なんだかしっくりくる」という状態になることが大事です。馴染むというのは、ゆっくりじわじわと染み込んでいくようなものです。急いだり焦ったりして一気に進めようとすると、反動ですぐ元に戻ってしまいます。

最初はほんの少し、そうして少しずつ少しずつ、変化は少なければ少ないほどいいのです。


さりげない優しさ。
ふんわりしたあたたかさ。
ささやかなよろこび。
どことなく感じる安心感。

小さな幸せの積み重ねが、逆境に馴染んだ心とからだを癒し、順境を怖がる気持ちを和らげてくれます。

ささやかなよろこびが、傷ついた心と体に「もう生き延びるために生きなくていいんだ」と教えてくれます。

小さな灯のようなあたたかさが、頑なな心の鎧を溶かし、ゆるめても大丈夫だよとからだに伝えてくれます。


幸せになるためには、幸せに慣れること。

幸せにしたいなら、幸せに慣れてもらうことです。



●続きもあります