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依存心というブラックホールの引力と闇

未解決の依存心を溜め込む「心の穴」について書いています。

ここでの依存心とは、単に「甘えたい、助けてほしい、わかってほしい」という気持ちだけではなく、

「見捨てられ不安」「愛されたいという渇望」といった愛着の傷つきや、「自己存在を肯定できない」という根源的な問題など、未解決のまま癒やされることなく抱えてきた気持ちのすべてを指しています。

今回は「圧縮された依存心がもつ魔力と闇」についてです。



依存心は外からはわからない

「その人が依存心がどのくらいなのか」ということは、外からはわかりません。

一見とても自立的で、他人に頼ることなく、自分の能力や努力だけでしっかりと生きているように見える人であっても、心の内側に大きな依存心を抱えていることはよくあります。心の奥底に依存心を隠し、その上に何らかの攻撃性で蓋をしていれば、外からはわからないものです。

そもそも、本人が自分の依存心を「秘密のもの」として隠しているわけなので、簡単には気づかれないようになっているのです。

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心の蓋としての攻撃性が、たとえばわかりやすく「他人に対する攻撃」であったなら、まだわかりやすいのです。

何かと言えば人に絡む、ケチをつける、批難する、難癖をつけるといった行為は、少し観察していれば「この人は本当は寂しいのだな」「かまってちゃんなのかな」と想像できます。家庭環境が複雑な子どもたちが非行に走るのと似た構図で、「愛情を求めているからこその攻撃性なのだろう」と見当がつきます。

しかし、より洗練されたやり方で「攻撃性という蓋」をしている人の場合、依存心はかなり巧妙に隠されています。

たとえば攻撃性が「ストイックさ」や「(ときに過剰な)頑張り」として出ている場合、結果として社会的には高く評価され、外からは「自立してしっかりした人だ」と思われやすいからです。

社会的地位がある人や、仕事で何らかの成功を収めた人、名声がある人、激務といわれる仕事でしっかり職責を果たしている人など社会的にはとても立派な人が、私生活を覗いてみればとんでもなく悲惨な状態になっているということは、実はよくあります。

特に家族やパートナーとの関係においては、ほとんど破綻していることも少なくありません。「依存心を隠す」とはつまり、「親密な関係と距離を置く」ということと同じだからです。

また逆に「とても依存的に見えるけれども本当はそうでもない」という場合もあります。

これも愛着の傷つきを抱えた人にみられる生存戦略のひとつですが、実際にはじゅうぶんな力があるのに「自分は無力だから誰かがいてくれなければ生きていけない」と思い込んでいる場合です。このタイプの人は、ぱっと見はとても依存的に見えますが、隠し持っている依存心はそれほど大きくありません。

いずれにしても、「その人が依存心がどのくらいなのか」ということは、外から見える姿からだけでは測りきれません。心の穴に何がどのくらい溜め込まれてきたのかを知ることなしに、その人のほんとうの姿はわからないものです。


依存心は「大きさ」では測れない

心の穴に溜め込まれた依存心というのは、いわば「圧縮された状態」です。

幼い頃から長年にわたって溜め込まれ続けてきた依存心は、年齢を重ねるごとに増えていきます。その依存心はそもそも未解決のままで、昇華されることもないままに溜め込まれるのだから、あっという間に心の穴はいっぱになります。

それを上から攻撃性という蓋でもって無理矢理に抑えつけているのだから、穴の底の依存心は圧縮されていきます。古い依存心ほど、幼い頃の依存心ほど、ぎゅぎゅうに潰され、圧縮されていくわけです。

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無力な赤ん坊だった時代から、自立したように見える大人になるまで、依存心は見た目こそ小さくなっているものの、実はただ圧縮されているだけで減っているわけではないのです。

それどころか、むしろ増えているはずです。依存心は解決されることなく昇華されることもなく、ずっと溜め込まれてきたのだから。


「一見とても自立したように見える人がとても大きな依存心を隠している」ということは、意外なことのように思えます。

事件やスキャンダルを起こした人が社会的に評価されている人物であったとき、「とてもそんなことをするようには思えなかった」「まさかこのような人物が」と世間はとても驚きます。

まじめそうに見えてギャンブル中毒だった、優しそうに見えて凄まじい虐待をしていた、一生懸命な先生だったのに逆上したら止められなかった、裁判官なのにストーカーしていた、大学教授なのに生徒にセクハラしていた、教師なのに中学生を買春していた、強面 こわもてで知られた選手だったのに薬物の誘惑に勝てなかった、優等生キャラだったのに不倫していた……

「◯◯そうだったのに」という驚きの声は、事件やスキャンダルがあるたびに聞かれます。

でも本当は、意外でもなんでもないのです。

立派で自立的に見える人ほど、依存心を溜め込んでいるものです。社会的な評価を得たということはそれだけストイックに努力したということ、つまり依存心を抑え込んできた可能性があります。強く見せていたのは、依存心を圧縮するためにそれだけのエネルギーが必要だったということ。

何かあると「そんな風には見えなかった」と皆言うけれど、本人がそのように見せていたから、世間にはそう見えていた。ただそれだけのことです。

外から見てわかるような弱さがあったなら、他人が想像できるくらいの抑圧であったなら、そうした事件やスキャンダルは起きなかったかもしれません。事件とはつまり、抑圧し続けてきた依存心というマグマの爆発だからです。


依存心というブラックホール

心の穴に抑え込まれた依存心は「そのものの量は変わっていないのに、圧縮されて体積が小さくなっている」

ここから連想するものがあります、ブラックホールです。

ブラックホールというのは「ものすごい質量を持った高密度の天体」です。

たとえば地球と同じくらいの質量であったら、それが角砂糖ほどの小ささに圧縮されていると考えてみれば、ブラックホールの密度の高さが想像できるかもしれません。「高密度である」というのはつまり、ぎゅうぎゅうに圧縮された状態であるということです。

だからブラックホールの重力は凄まじく強いものです。いったん引き込まれてしまったら、光の速さをもってしても抜け出すことができない。光すらも出てくることができないから、その内側は完全な暗闇です。

人の心の穴に溜め込まれた依存心について考えるとき、私はいつもブラックホールのことを連想します。

依存心というものもまた、人の心を惹きつけるものです。赤ちゃんが泣くのは養育者に気づいてもらうため。ぐずるのは大人の注意を引くため。「助けて」「わかって」「愛して」という依存心には、そもそも他者の関心を自分に惹きつけるという役割があります。つまり依存心には、ある種の引力があるのです。

他者を惹きつける引力をもつ依存心が、もともとの量はそのままに、ぎゅうぎゅうに圧縮されていけばどうなるか。

依存心というブラックホールは、惹きつけられた人が二度と離れられなくなってしまうほどの強烈な魔力を持つのではないか。未解決の依存心を溜め込んだまま生きる人の心には、角砂糖のような小ささで光をも吸い込んでしまうほどの闇があるのではないか。

そんな風に思うことがあります。


ブラックホールには「これ以上近づいたら吸い込まれてしまうよ」という境界線があります。事象の地平面と呼ばれる境界です。

依存心という闇にも、同じように「それより先に近づいた人は離れられなくなってしまう」という境界線があるかもしれません。

ある距離を保って接しているぶんには何でもないのです。ある距離感を持って付き合う人からすれば、特に魅力的でもない、取り立てて惹きつけられることもない、ただ自分の仕事に熱心な人というくらいの印象です。

でもたとえば恋に落ちたり仕事で密接な付き合いをしたり、つまり「ごく親密な距離感になること」によって事象の地平面を超えてしまうと、強く惹かれ、その人からなかなか離れられなくなってしまうということがあります。

その境界を超えた人にだけ聞こえる叫びがあり、すすり泣きがあるからです。その境界の先でしか触れることのできない寂しさが、ブラックホールの闇の中でしか分かち合えない孤独があるからです。

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その人を愛そうとして近づき、かすかなすすり泣きの声を一度でも聞いてしまったら、自分の力で離れることはとても困難なことです。

なぜならそれこそが、紛れもなく「本当のその人の姿」であるからです。

大切にされていないのに別れる決心がつかないのは、その人が心が泣いている声を聞いてしまったからです。暴力をふるわれていてもそばを離れることができないのは、「置いていかないで」とすがりつく手に触れてしまったからです。愛を求めて叫ぶ親の姿を見てしまった子どもは、どんなに毒親でも自分から離れることが難しいのです。

そして、依存心というブラックホールの魔力に惹きつけられる人のほとんどは、自分の中にも同じ闇を抱えて生きています。だからなおさら、自力で抜け出すことが困難になるわけです。

満たされない依存心というものは、このように、強烈で凄まじい引力を持つものです。


圧縮された依存心は、寂しさのブラックホールとなって、その人の心に巨大な空洞を生み出しています。

とてつもなく巨大なそれは、抑圧された未解決の依存心と、それを抑えるための力でぎゅうぎゅに満たされています。それだのに空っぽで、真っ暗で、何もない空洞です。

だからいつも寂しい。いつも満たされない。いつも足りてない。

どんなに評価されても、正当に評価されていない気がする。差し伸べられた手があっても、払いのける。愛そうとしてくれる人がいても、その愛をうっとおしく思う。

そうして、目に見えるものを求めて彷徨い続けます。

地位や名誉を追い求めたり、お金や成功に執着したり、身体が壊れるほど働いたり、自分を傷つけるような相手に近寄ったり、複数の人と付き合ったり。

すぐそばにあるささやかな幸せ、心に小さな灯がともるようなあたたかさ、爽やかな風が吹き抜けるようなよろこび、握った手から伝わる安心感といったものに、目が向けられることはありません。

未解決のままの依存心を溜め込み、物質と行動だけの世界に生きるということは、心に巨大な闇を抱えながら生きるということです。自分の心の入り口に、すべてを闇に飲み込むブラックホールが大きな口を開けていつも待ち構えているということ。

何をしても、何が手に入っても、誰といても、その空洞がある限り満たされることはないのです。


心の穴に依存心を溜め込んで生きるということは、表面的な人生がどんなに充実しているように見えても、空虚でしかないということ。

依存心を抑圧して生きることの寂しさは、それほどに強烈で、人間存在の根源にかかわることだということです。