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母のこと

子供の頃、大人になったらわかるよ…って、教えてもらえなかったこと。
たくさんあったはずなのに、全く覚えてない。


僕の母は親戚から総すかん食らってしまうタイプの破天荒さを持っていた。

10代で家を飛び出し、4畳半のアパートでギターを掻き鳴らす男性と同棲、水商売で生計を立てていたと聞いている。その後、その男性との間に子供ができて結婚。そこには豊かさも平穏な幸せもなく、数年後3人の子供を祖母に預け、壊れた生活を何とかする為にあれこれと働いていたのだという。

僕の人生における最初の記憶はたぶん父親のあぐらの上で、今の僕にそっくりなずんぐりとした父親の親指を握っていた事だ。
隣で母がうつむき、泣いていて。
狭い部屋の中で両親を囲うように見慣れない大人達がいた。
憶測だけど、この後僕たち兄妹は祖母に預けられ、母は、父親と別れたんだと思う。

次に母とあった記憶は数年後。小学生になろうとしていた僕の所に母はあらわれた。祖母は娘を叱っていたが、5歳の僕は祖母の煮干しが入った味噌汁が嫌いだったので、母との新しい生活が嬉しかったのを覚えている。

母が新しい生活をはじめるきっかけとなったのは、彼女にとって人生最大の幸運である、父さんとの出会いがあった事だ。

20代終盤に大恋愛をして結婚まで取り付けた相手は彼女より11才年下で、二十歳に届かない若者だった。
このお兄さんは誰なんだろうともじもじする僕ら兄妹に、自分が新しい父であることを説明した。母はこの新しい父さんを溺愛し、子供の僕らから見ても少々恥ずかしいほどだった。

彼女の愛は弟が二人生まれたことで証明されていたし、貧しくはあったが働き者で優しい父さんによって、生活は支えられていく。

ある頃から、外出先でのありもしない浮気をヒステリックに攻め立てる声が聞こえ始める。襖一枚向こうで夜中に降り広げられる痴話喧嘩。
昭和のコメディでしかあり得ない食器が割れる音や、キーっと言う声が毎週のように聞こえていて、その度に僕は襖一枚向こうから聞こえる母の声を、2段ベットの上で布団を頭までかぶってやり過ごしていた。下では多分妹も同じようにしていたのだと思う。

ある日の朝、父さんの髪型が何かの冗談のように前髪の一部分だけ剃り落とされているのを見た。夜には丸坊主になっていた。

数日後には、父さんの上司の奥様のところにいきなり赴き、父さんに対し色目を使うなと趣旨で怒鳴りこむという珍事を起こしたことを知った。父が母を本気で叱っていたのを聞いたのはこの夜が初めてだった。

こんな母ではあったが、子供にはすごく優しい女性だった。

幼少のころ、喘息を持っていた僕は母におぶさり、近所の診療所に何度も連れて行ってもらっていた。首や胸にス―スーする薬を塗ってくれる手が優しくて好きだっだ。喘息の発作は嫌いだったけど、5人いる兄弟の中で母を独占できる時間に少し優越感を持っていたのかもしれない。

中学生になろうとしていた時。喘息の発作がひどくなった。いつもなら病院に連れて行ってくれるはずの症状だったが、この時はいつまで待っても連れて行ってもらえない。呼吸する事と意識を保つことがあいまいになって、実際にはどのぐらいの時間がたったのかわからないけど、気が付いたらいつもとは違う大きな病院にいたことがあった。

きれいなベットで寝ていて、呼吸が楽になっていた。カーテンに囲まれていて、点滴につながれていることも分かった。ぼんやりしながら周りに母が、時々家に来る叔父さんと話しているのがわかった。

話が終わった後、カーテンの内側に母が入ってきた。僕は何となく目をつぶり、母が僕を優しく起こしてくれるのを待った。

「おまえ、むこうに行かないか?…ごめんね。ごめんね。」

この後、数週間後に退院した。僕の帰った家は祖母の家だった。煮干しの味噌汁は頭を取ってないから相変わらずえぐみがあって、おいしくなかった。

子どもだった僕は、この後母に会わずに、大人になる。

若かりし頃の失敗や、自身の結婚などを経て、母との関係を修復する気になれたのは、母があの白いカーテンの内側で息子に別れを告げた年齢になってからだった。

母の家は引っ越していて、隣の町になっていた。少しだけ広い物件になっていた。

久しぶりに見た実年齢より大きく老け、父さんとの年齢差は見た目だけなら親子に見えた。

苦しい気持ちになりながら、食事に連れていき、靴をプレゼントしてみた。

夜、お土産で持って行った日本酒を開けたが、母は機嫌よく味わう様子もなく勢いよく杯を開けていく。父さんはその時は久しぶり息子が買ってきたものだからと止めなかったが、どうやら飲ませてはいけないと知っていた様子だった。

「まったく、お前は一番あの人に似てるよ!顔も、声も、手も!私の人生をめちゃくちゃにしたあの男そっくり!何とか言え!このくそやろう。」


母はその後入退院を繰り返すようになる。

ベッドすらない病室は、窓に鉄格子がはまっており、牢獄の様で、気温以上に寒々しかった。

地元で母や父さんを支えてくれていたのは妹だった。そんな妹から連絡がきたとき、不思議と驚かなかった。


棺に収まった母は、イメージより小さかった。隙間だらけの棺を埋めるように生前に彼女が愛用していた品々を入れていく、父さんは家族みんなでメッセージを書いた布の中央に愛していると書いていた。



母と過ごした時間は少ない。

全部わかっているなんておごがましい。

でも、母は幸せで不運な人だった。幸運で不幸な人だった。


せめて忘れずにいたいと思う。

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