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【読書感想】「虐殺器官」 伊藤計劃

読了日:2018/10/13

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この本の概要

9.11以後の近未来。
アメリカ軍の特殊作戦部隊に所属するクラヴィス・シェパードは、後進国や内紛多発地帯の要人を暗殺する部隊にいた。
内紛多発地帯に必ず出現し、その地域に混沌をもたらすジョン・ポールというアメリカ人。
ジョン・ポールの目的はいったいなんなのか?
虐殺器官とは?

「読書脳 僕の深読み300冊」で紹介されていた小説。
「読書脳」に、
「あとがきに書かれている作者の闘病記がすごい」
とあって、それが気になって買ったというのに、全部読み終わって「いざ、あとがき!」と思ったら、Kindle版にはあとがきがなかったっていう…(T-T)
あぁぁぁぁ…。

ということで、気になるあとがきは読めてないんだけれども、小説は面白い。
ただ、戦争小説でグロい残酷な描写がけっこうあるので、そういうのが苦手な方はやめといた方がよいかと。

これからの戦争

この物語は、9.11以後の世界を舞台にしたSF小説。
SF小説なので現実ではないんだけども、出てくるテクノロジーや、脳科学をもとにした治療・カウンセリングなどは、近い将来実現できそうだなぁっていうものが多く、読んでいて少し怖くなってしまった。

本のなかでは、以下のような技術がでてくる。

・眼球を覆うナノレイヤーの薄膜で、各種情報やナビを表示。

・脳の一部の機能を一時的に制限できる。
たとえば良心を司る部分を制限したり、痛みの感覚は麻痺させつつ痛みを知覚したりできる。

・環境追従迷彩なる技術で、外の景色になじんで見つけられにくくなる技術もある。

・人口筋肉で、鳥の翼や人の足を模したロボットが存在している。

もちろん「さすがにそれは無理なのでは?」というのもあるんだけれども、そのうち実現できそうだな、と思うものもけっこうあって、そのギリギリのリアリティーが絶妙。

主人公は、紛争地域の独裁者を暗殺する仕事。
こういう地域では、独裁者が、少年兵を従えていることも多く、独裁者暗殺のために年端もいかない少年兵を殺して進まなければいけないこともある。
そういった場所で良心をはたらかせてしまうと、任務を達成できずに逆に殺されてしまうので、ミッションの前には、脳の良心を司る部分の機能を一時的に麻痺させて仕事にあたる。
それは、高価な特殊戦闘員というコマを長持ちさせるために必要なものでもあるし、兵自身の精神を守るためでもある。

こんな趣旨の説明が小説内にあるんだけれども、これも絶妙なさじ加減でリアルだなぁと私には思えた。
一般庶民の浅知恵でしかないけれども、最近の脳科学の進歩を見ていると、こういう処置はもう少ししたら本当にできるようになるんじゃなかろうか。
今の平和な世の中では、この技術の使い方は倫理的に間違ってると思うだろうし抑制もきくだろうけど、戦争という状況下になったら、間違いなく多くの先進国が使うだろうな。

このほか、痛みの感覚を麻痺させつつ、痛みを知覚させる処置、というのもでてくる。
痛みを感じる脳の部位と痛みを知覚する脳の部位は別なのだそうで、痛いと感じてパニクってしまうのは兵士としては致命的なのでその感覚は麻痺させるけど、痛みを知ることは生存上大切なのでその部分は麻痺させずにおく。
そういう処置を施して戦地に向かうわけだけど、痛みを感じないもの同士が戦うと、最悪死ぬまで戦い続けることができてしまう。
まるでスプラッタ映画のように。

近未来的技術と、その技術をベースにしたフィクションが展開していくんだけども、フィクションとは思いつつも、そういう技術がこれからの戦争で使われる可能性があると思うと恐ろしい。
脳がコントロール可能になる世の中は、現実でもあり得るし、マーケティングの世界では潜在的なところでもう脳のコントロールをしはじめているとも聞く。
小説のような技術が使えるようになったとして、その技術を使わないという選択を私たちはできるのだろうか。

たぶん、できない気がする。

本当にありきたりで当たり前な感想になるけど、戦争や紛争がない平和な世界でありたい。
こんな技術に頼って、人間の脳を操作してまで、戦いたくなんかないな…。

ワタクシ的名言

感情とは価値判断のショートカットだ。理性による判断はどうしても処理に時間を要する。というより究極的には、理性に価値判断を任せていては人間は物事を一切決定することができない。完全に理性的な存在があったとして、それがすべての条件を考慮したならば、なにかを決めるということ自体不可能だろう。

「感情とは価値判断のショートカット」というのがとてもよい表現だなぁと。
理性的にふるまっていると何も決められないというのは、日常に生きていてもよくあることで…。
「なんかいいな」とか「思いつき」って、ロジカルじゃないので軽んじられがちだったり馬鹿にされがちだけど、決断と行動には、実はこの「感情」こそが一番大事だと最近思う。
理性的に振る舞って賢く見せてるものの自らはなにも行動を起こさない人が圧倒的に多いなか、ガツガツ行動する人が輝いていたりするのは自分の感情や直感に忠実に行動しているからなんだろうなぁ、と。
人は理性からは行動を始めにくいのではないかしら。
人を動かし、行動を変えるのは常に感情から。
もっと「感情」に目を向けてもいいのかもしれない。
そのさじ加減は、とても難しいのだけれど。

仕事だから。十九世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方がないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間たちから、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、きみは知っているかね。仕事だから、ナチはユダヤ人をガス室に送れた。仕事だから、東ドイツの国境警備隊は西への脱走者を射殺することができた。仕事だから、仕事だから。兵士や親衛隊である必要はない。すべての仕事は、人間の良心を麻痺させるために存在するんだよ。資本主義を生み出したのは、仕事に打ち込み貯蓄を良しとするプロテスタンティズムだ。つまり仕事とは宗教なのだよ。信仰の度合いにおいて、そこに明確な違いはない。そのことにみんな薄々気がついてはいるようだがね。誰もそれを直視したくはない」

仕事だから。
自分のなかの良心や理想と、仕事との狭間で、自分の心の一部を無意識的に麻痺させて日々生活している人、というのはとても多いと思う。
というか、そういう人が今の日本ではほとんどじゃないかなぁ。
「たとえ仕事だとしても私(僕)はそんな残虐なことはしない」と思う人も多くいるのかもしれない。
でも、肉体的な残虐さがなくとも、精神的な残虐さは私たちの日常のなかにも多く潜んでいると思う。

「仕事だから」という理由で、妻が育児で疲弊しきっているのに家庭に目を向けられない人は、妻に対して残虐ではないと言い切れるのだろうか?

「仕事だから」という理由で、顧客にとって有益ではない商品を売り付けることは、顧客に対して残虐ではないと言い切れるのだろうか?

「仕事だから」という理由で、道端で明らかに困っている人を置き去りにして、歩を進めることは残虐ではないと言い切れるのだろうか?

仕事を言い訳にして残虐な振る舞いをしていることは誰にでもある。
もちろん、人を直接殺す、という残虐さとは違うのかもしれない。
でも私には、日々のなかに溢れる小さな「仕事だから」と、仕事だから誰かを射殺するという行為は、
それほど乖離しているものとは思えない。
今の世界で「仕事だから」を言い訳にする行為の延長戦上には、仕事で誰かを射殺しなければならなくなったときに「仕事だから仕方なかった」と言い訳する自分がいるように思う。

「仕事だから」を言い訳にせず、この今の世の中では生きていくことはとても難しいのかもしれない。
辛い世の中、きれいごとだけでは生きてはいけないのもわかりすぎるほどわかる。

それでも。
「仕事」は私たちの主ではない。
「仕事」に指図される生き方ではなく、青くさかろうがなんだろうが、自らの「良心」がきちんと機能しているうえで、「いい仕事」ってやつをしていければいいな、と思う。

それにしても、あとがき、読みたかった。

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