【読書感想】ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと戦い、水俣で泣いた 斎藤幸平

この本の概要

斎藤幸平、現場で学ぶ。

うちに閉じこもらずに、他者に出会うことが、「想像力欠乏症」を治すための方法である。だから、現場に行かなければならない。(「学び、変わる 未来のために あとがきに代えて」より)

理不尽に立ち向かう人、困っている人、明日の世界のために奮闘する人――統計やデータからは見えない、現場の「声」から未来を考える。

Amazon作品説明より引用

感想

本屋でウロウロしてたら、タイトルに惹かれまして、著者のこともよくわかってなかったけど購入。

作者の斎藤幸平さんは哲学者・経済思想家・研究者でして、有名な著書に「人新生の資本論」というのがあります。
ちょっと検索したらNewsPicksの動画に出演してたりもしたので、私は知らなかったけど有名な方のようです。

本の内容は、学者・斎藤さんが、「実践せず、机上だけで語っていてもよろしくないだろう」というお考えのもと、さまざまな職業や体験を実際にやってみて、感じたこと、思ったこと、気付いたことを書き連ねていくというものです。「斎藤幸平の分岐点ニッポン」というタイトルで新聞上で連載されたものを書籍化しています。

若いの頃よりも、歳をとってからの方が「体験による価値」を強く感じるようになった気がします。というか若い頃はそもそも「体験で得られるもの」と「知識習得で得るもの」の差異に目を向けていなかったかも・・。
「子育てはしんどい」という知識と、「子育てはしんどい」という体験は、文章の字面だけみると全く同じ。でも、実際のところ、このフレーズでの知識と体験は、5000倍くらい違っていて、やってみないとわからないことや感じられないことが圧倒的な総量であるんですよね。

知識で知ることにももちろん多くの意味はあるけども、体験から得られるものというのは五感含めて自分のからだ全体で感じるもの。そういうことが若い頃はあんまりわかってなかった気がします。
私も大人になったものよ。

ワタクシ的名文

私たちの日々の生活に不可欠なエッセンシャルワーカーに甘えすぎていないだろうか。ケア労働をあまりにも軽視してきたにもかかわらず、ケアの危機の瞬間に、その負担を彼女たちに押し付けてはいないだろうか。結局、グローバル化が進むなかで、私たちの社会は効率性だけを求めすぎたのかもしれない。
(中略)
減速して余裕を持つこと。無駄が無駄ではなかったことを反省し、何が本当に社会にとって本質的なものなのかを見直すこと。電通も本当にこんなにたくさんの広告が必要なのかだって改めて考え直してみるべきだろう。それこそが「プルシットジョブ」を乗り越える真の働き方改革になるはずだ。

p29 どうなのテレワーク

コロナ禍でのテレワーク体験。大学の授業はオンラインになり、頑張って収録した授業を学生たちは倍速で観る。テレワークで効率よく働けるようになった反面、対話・雑談という無駄は減り、DXで効率良くしていけば簡単な作業をしていた人の職はなくなっていく。
効率化や技術の発展で一部の特権階級は富を得られている一方で、今回のような緊急事態で、ケア労働者やプルシットジョブについていた人たちは割を食う。
ミヒャエルエンデの「モモ」のテーマにも通じるけど、私たちが切り捨ててきた無駄にこそ、実は人の本質が隠れているのかもしれないよね。


京大は「自由な校風」をいつまで守ることができるだろうか。数年後の京大生は、さらなる規制も「ルールだから」という理由ですんなり受け入れてしまうかもしれない。その先に待つのは「グローバルエリート」養成期間としての京大であり、そうしたルールに従うエリートが作り出すのは、香港やシンガポールのような管理社会なのか。ちっぽけな自由の問題だって、大きな自由の問題につながっているのだ。

p37京大タテカン文化考

京大のタテカン作り団体に入り、一緒にタテカンを作る体験をしたときの話。タテカン騒動少し前にニュースになってましたね。
たかがタテカン、されどタテカン。
学校の校則然り、マナーという名の同調圧力しかり、さまざまな縛りが増え、枠からはみ出した自由はどんどん削り取られていく。そんな感じでずーっと進んでてなんだかなーと思います。
私は自由を愛するタイプなのでらもし京大に入っていたらタテカン作ってたかもしれないなぁ、なんて思いました。(まぁ無理だけどさ)


表現を通じた関係性は、年齢や職業、収入といった区別を相対化していく。その過程で自らの偏見の源泉に気がつくこともあるだろう。その偏見は自分の苦しみのせいかもしれない。この資本主義社会で金を稼ぐため、家族や健康を犠牲にして働き続けてきた社会のマジョリティが「我慢だらけの人生のせいで、頑張っていないようにみえる人たちを許せなくなっているのでは」と上田さんは分析する。

p155 釜ヶ崎で考える野宿者への差別

「ずるい」という言葉は面白いなぁといつも思います。他者と自分の差に対して、他者の方が利を得ているという不平等な状態を表しているだけでなく、そこにプラスして「こんにゃろうめ」という憎たらしく思う感情までも含まれています。そのあれこれがたった3文字の「ずるい」に込められています。
この文章も要は「ずるい」なんですよね。
こっちはこんなに苦労してるのに〜〜っていう感情が、ただ寝てるだけに見える野宿者に向いてしまい、嫌悪や偏見につながる。
ネガティブな感情は、相手の問題なのか自分の感情からくるものなのか、実は色々混ざってるんだなぁってここを読んで思いました。


もちろん、私やあなたの苦しみは、アイヌの人たちと同程度の苦しみや葛藤ではないかもしれない。けれども、「自分の苦しみは大したことない」、「もっと辛い人がいる」とみんなが我慢したせいで、日本は「沈黙する社会」になってしまったと石原さんはいう。だとすれば、自分を大切にするために、自らの感情に言葉を与えることは、この誰もが「わきまえすぎている」社会において、他者と連帯するための一歩なのである。

p194 特別回 アイヌの今

SNSで個々人が発信しやすくなったことで前よりも声をあげやすくなったけど、「自分の苦しみは大したことない」「もっと辛い人がいる」ととらえて現状を諦めつつ受け入れるというマインドは、ひとつの処世術として、私ら世代にはとても馴染み深いものなのではないかと思います。管理職を目指す女性がそもそも少ないのも、あんまり納得いかない環境でも飲み込んで働くのも、無意識レベルで私らはやってきてるんじゃないかしら。むしろそう考えられる人こそ大人、と思っている人たちもまだめちゃくちゃ多いのだと思います。
でも、私たちが「自分さえ我慢すれば…」としてきたことでどんどん後ろを歩く人たちに重たいものを渡し続けてしまってたんですよね。
良くないなぁと思います。
時代の変化とともに、日本における大人の定義も変化してるなーって思いました。


読みやすいのですぐ読めます。ライトに読めるけど深く考えることもできるので資本主義とか今の社会に対してあれこれ思うことがある人は読んでみるとよいかも!



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